凸凹魔法陣


「な……」

声にならない言葉が何度も喉に引っ掛かり、クリフトは喘いだ。

「なんだって……?!」

お化け鼠と、母親。

およそ最も結び付かない言葉同士が、どうしても頭の中で絡み合わず、まるで嵐に襲われたように激しく混乱する。

「驚かないで聞いて。嘘なんかじゃないんだよ。

あの日……ぼくが、死んだ日」

巨大な炎に浮かんだフィバルは、痛みに堪えるように表情を歪ませた。

「そう、あの日はお天気が悪くて、ぼくはお母さんとおうちでチェスをしていた」


(フィバル、フィバル……。


あんたは強いのねえ。母さん、また負けちゃったわ)


クリフトははっとした。

とろけるように優しい、愛情に満ちた囁き声。

幼いフィバルの鮮明な記憶が、奔流となってクリフトの中になだれ込んで来る。

「チェスをするたび、お母さんが上手に負けてくれていたなんてこと、小さなぼくにはまだ解らなかった。

何度やってもすぐに勝つから、だんだんとぼくはつまらなくなり始めたんだ。

やっぱりぼくは男の子だもの、遊ぶならお母さんとより、高い高いや腕相撲をしてくれるお父さんの方がいいやなんて考えた。

鉱夫だったお父さんは、あまり喋る人じゃなかったけれど、お休みの日はぼくに魚釣りを教えてくれたし、丸太を切って木馬を作ってくれたりもしたよ。

お酒を飲んで酔っ払うと、いつも言った。

俺の後をついで、立派な鉱山の男になれって。

だからぼくは大きくなったらお父さんのように、強くてかっこいい鉱夫になるんだって決めていたんだ。

それなのにあんな事、しなけりゃよかった。

どうしてだろう、ぼくはお母さんを困らせたりする子じゃなかったのに、何故かその時はこう思ったんだ。

そうだ、退屈だから黙って抜け出そう。東の洞窟までお父さんに会いに行こう。

ぼくはこっそり決めてお母さんに、お腹がすいたからパンケーキを焼いてちょうだいって頼んだ。

でも、本当はお腹なんてすいてなかった。お家を抜け出すための嘘だったよ。

お母さんはにこにこして、解ったわフィバル、すごくおいしいのを作るわねって頷いてくれた。

ぼくはお母さんが釜に火を入れている隙に、そっと家を抜け出した。外は薄暗くて、霧みたいに細かい雨が降っていた。

冷たくて寒くて、でもその時のぼくは、まだ浮かれていたよ。

初めてお母さんを出し抜いてやったことと、お父さんに会いに行ける事が嬉しくて。

洞窟は湿気がひどくて、岩の地面はお水をかけたみたいにぬるぬるしてた。

ぼくは何回も転んで、べそをかきながら真っ暗な洞窟を進んだ。

松明の火に照らされて、お父さんの大きな背中が見えた時は、とってもとっても嬉しかったな。

あのままお父さんに走り寄って、思い切り抱き着けばよかったんだ。


ぼくはただ、そうしたかっただけなのに。


ねえお兄ちゃん、神様は人に決まった長さだけの命を下さるって言うよね。

だとしたらぼくの命は、やっぱりあの日が最後だって決められていたのかな。

ぼくはお父さんを驚かせてやろうと後ろから回り込んで、壁に続く岩陰にしゃがみ込んで隠れた。

お父さんが目を真ん丸にして、おひげだらけの顔をびっくりさせて、狼みたいにがらがらした声で、「おお、フィバルかぁ!?」って叫ぶ。

そればかり考えて、胸がわくわくどきどきして、そこにたくさんの爆薬が仕掛けられていたことになんて、気付きもしなかった。

お父さんが耳を押さえて、慌てて反対側に走り出したから、あれっと立ち上がろうとして、


それが最後だったよ。



ぼくはお母さんに嘘をついて、お父さんにも気付かれないまま、ひとりで花火みたいにばらばらになって死んだ。

ものすごい熱さと痛みが、お日様みたいな眩しさと一緒にやって来て、それから今度は目の前が真っ暗になった。

いつも同じ色の靴を履いていたから、すぐにぼくだって解ったのかもしれない。

暗くて深い底のない穴に、頭からくるくると落ちて行きながら、お父さんのものすごい叫び声が聞こえた。

ぼくの名前を、何度も何度も呼んでいた。

決して逃げられない罠に掛けられた獣が、体中から血を流して叫ぶ悲鳴みたいに、耳に入って来るだけで、身体が引きちぎれてしまうような叫び声だった。

ぼくはお父さんに、あんな悲鳴を上げさせたいんじゃなかった。

ただお仕事を終えた父さんと一緒に、手を繋いでお家に帰りたかっただけなんだ。

お母さんだって、おいしく焼けたパンケーキをお皿に載せて、

「フィバル、フィバル。出来たわよう」って、きっとにこにこ笑いながら、台所からぼくを呼んでいたはずだ。

蜂蜜をたっぷりかけたパンケーキが、ぼくもお母さんも大好きで、いつも二人で取り合いっこしながら食べていたんだもの。

でも不思議だね、お兄ちゃん。

あんなことしなければよかったって、心の底から思う。

それなのにもしもう一度、あの日を朝からやり直すことが出来たとしたら、ぼくはまたお母さんに嘘をついて、お家を抜け出して洞窟に向かうような気がするんだ。

きっとまたぼくはお父さんを驚かせてやろうと、岩陰に身体を丸めて隠れるだろう。


どうしてなんだろう。


どうしてぼくは誰も悲しませずに生きて、大人になることが出来なかったんだろう」
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