凸凹魔法陣
あまりにも不可思議な事の連続で、きっと恐怖を感じる中枢が、綺麗に麻痺してしまったのだろう。
「君は、……誰だ?」
叫び声を上げるより先にクリフトは思わず、炎の中に佇む男児に向かって問い掛けていた。
「ぼくはフィバル」
半透明な身体が、オレンジの炎の柱の中で、海月のように透けてきらきらと光る。
フィバルと名乗った少年は、場違いなほど朗らかな笑みを浮かべて、クリフトに向け手を差し延べた。
「ずっと、ずっと待っていたんだ。誰かが助けに来てくれるのを。
それまでぼくは、どうしてもここを離れるわけにはいかなかった。
でも一体、どうしたら助けてもらえるのかわからなくて、もうずいぶん長いこと洞窟をさ迷い続けたよ。
そのあいだに何人かの大人がやって来た。でもみんな、食べられてしまった。
なんとかして伝えたくて、でもどうすることも出来なくて、そしたらやっとぼくに力を与えてくれる光が見えた。
神様の息吹に護られた、聖なる炎の力だ。
ぼくのことが見える、声が聞こえるお兄ちゃんは、きっと神の子供。選ばれた心正しい神さまの使者なんだね」
「わ、わたしはそんな、大袈裟なものじゃないよ」
クリフトは顔を赤らめた。
「わたしはたまたま、修道院で神学校への進学を選び……他に何をしたらいいか解らないから、教会にいるだけで」
時を重ね、たしかに信仰心は強くなったけれそ、どうしても神の使いになりたいなんて心から思ったことが、これまで本当にあっただろうか?
武術の道を選び取ろうとしている、真っ直ぐな志も高いアリーナ姫とは違い、自分は哀しみのどん底に落とされた時、たまたま目の前に十字架があったから、それにがむしゃらにすがり付いて生きて来ただけなのだ。
(真面目で純粋な信仰者とは、とても言えたものじゃないや)
もし両親を失った時、教会ではなく農家に預けられていたのだとすれば、今頃作物を育てていたのかもしれないし、
あるいは酒場の下働きとして、破れた膝を着いては、酒臭い床を磨き続けていたのかもしれない。
怠けるということの出来ない性格の自分は、なんであろうと与えられた仕事に疑問すら持つことなく、機械のようにただひたすら、今日まで働き続けて来たはずだ。
でもそれが正しいことなのかどうか、今はだんだんと解らなくなって来ている。
(与えられた事しか出来ないのは、わたしの中になんにもないからだ)
(アリーナ様のように、自分の求める道を見つける事が出来ないから、わたしはいつまでたってもふらふらと心弱く、中途半端にしか生きていけない人間のままなんだ)
「そんなことないよ」
まるでクリフトの心の内を見透かしたように、フィバルが間髪入れずに言った。
「お兄ちゃんは、まだ自分で気付いていないんだね。
ぼくはこちらがわの世界に連れて来られて、少しだけ神様の国に近付くことが出来たから解るよ。
お兄ちゃんの中には他の誰にもない、真っさらでぴかぴかした綺麗な光がある。
いつかその光が、神様の心を伝える虹色の懸け橋となって、世界中のたくさんの人々を助ける力となるんだ。
知ってる?虹には七つの色があるってことを。
ひとつひとつの色は小さくても、やがて七つ集まれば、それはどんなことにも負けない希望に溢れた輝きになる。
あのお姫さまもそうだよ。君達はきらきらした、虹色の未来への光のひとつ。
その中でもとくに君達ふたりは、剣と杯……絵本の中のでことぼこみたいに、特別に惹かれ合う約束になってるみたいだけど。
でも面白いや、普通は剣って男の人の役目と決まってるものなんだけど、君達は逆なんだね。
勇敢なお姫様が剣、癒し慈しむお兄ちゃんが杯。
すごく珍しい、神様に選ばれた、世界にたった二人の組み合わせだと思うよ。
だからお兄ちゃん、あのお姫様をとっても大切にしなくちゃね」
「一体、なんの話をしているの?君は」
クリフトはわけがわからないように首を捻った。
「わたしはちゃんと臣下として、アリーナ姫様を大切に敬い申し上げているよ」
「そうじゃなくってさ」
フィバルと名乗った少年は、炎の中で肩をすくめた。
「鈍感だなぁ。お兄ちゃん、もう12歳になるんでしょ。
男でも、もう少し恋愛の機微にも詳しくならないと、今の時代に取り残されちゃうよ」
「レ、レンアイノキビ?」
「ぼくは5歳だったけれど、ちゃんと好きな女の子もいた。
その子と一緒にいるとすごく嬉しかったし、楽しかったよ。だから」
フィバルの透ける顔が、悲しげに曇る。
「もう会えないんだと解った時は、とっても悲しかったな」
「……フィバル、君はもしかして……」
すでに解りかけていることを恐る恐る口にしようとすると、フィバルがこくりと頷く。
その幼い瞳は火に包まれながら、湖水のように澄んでいた。
「そう、ぼくは死んだ」
クリフトは言葉を失い、炎の中に漂うフィバルの幻影をただ見つめた。
「お父さんの後をつけて、この鉱山にこっそり遊びに来て。爆破に巻き込まれたんだ。
ぼくの身体は一瞬で、紙屑みたいにばらばらになった。
そしてそのせいで、全てがおかしくなってしまったんだ。
あのお化け鼠が生まれてしまったのは、ぼくのせいだよ。
あれは……あれは、ぼくのお母さんなんだ」