凸凹魔法陣


幼い少年の心に、小さく点っていた決意。

危ない事なんてせず、教会で日々、神と共に静かに生きていきたい。

そんなふうに思っていた少し前までの自分に、出来ることなら今の自分を見せてやりたいくらいだ。

まさかこの国のたったひとりの王女と共に、夜中に街を抜け出して、見知らぬ洞窟を縦横無尽に駆け回りながら、伝説のお化け鼠と戦うことになるなんて。


「わぁぁっ!!」

背後から、また攻撃。

巨大な爪が襲い掛かる。

クリフトは恥も外聞もなく、頭を抱えて逃げ惑いながら、掌に離さず握り締めていた、黄ばんだ羊皮紙の存在を慌てて確かめた。

アリーナ姫が書庫からこっそりと破り取って来た、二枚の魔法書の切れ端。

朝までに元に戻しておかなければ、多分ばれてしまうだろう。

城お抱えの魔法使いブライの千里眼といえば、並大抵のものではないのだ。

(十日間の夕食抜き、城門の掃除、床磨き、草むしりに、それから聖書十冊分の写筆……)

(そんなの、まだましだ)

何としても避けたいのは、あのブライの杖打ち。

幻の世界樹の枝で作られているという、大きな魔法の杖で、四つん這いにされて説教されながら、思い切りお尻をばちばちと叩かれる。

(絶対に嫌だ!!)

(わたしはもう12歳なんだから……!お尻を叩かれるなんてこと、されてたまるもんか!)

(なんとしてもお化け鼠をやっつけて、朝までにサントハイムの街に戻る!)

(そして神父様の蜜蝋を使って、ブライ様も気付かないくらい綺麗に元通りにするんだ!)

その時、眼前に渦を巻く巨大な炎が閃いた。

(レミルーラの炎だ!やっと魔方陣にたどり着いた!)

「クリフト、早く!」

岩と岩の間を跳躍し、なんとかお化け鼠を撹乱させようとしていたアリーナ姫が、息を切らしながら叫んだ。

「やっぱり足止めの呪文がないと、避けるのが精一杯で攻撃は無理だわ!

マヌーサを、マヌーサを早く唱えてちょうだい!」

(す、すごい)

まるで武術の組み手のように、次から次に襲い掛かるお化け鼠の爪を、小さなアリーナは時に体を捻り、時に空中で旋回しながら、ひとつひとつ完璧にかわしている。

(なんて動きだろう!こんなに小さくて、まだ武術を正式に習った事もないのに)

(アリーナ様は本当に、戦いの申し子なんだ)

(もしかして大きくなったら、噂に名高いエンドールの武術大会で、女だてらに優勝するほどの使い手になるかもしれない)

(まさか……王女様だし、いくらなんでもそれはないか)

(でもこうしていると、まるで優雅な舞いを見ているようで)

(とても、綺麗だ……)

クリフトは、ふと不思議な感覚にとらわれた。

彼女が動けば、鳶色の長い髪が風にたなびく。

鳥のように身軽に跳んでは、空気を切るほど素早く突き出される、若竹のようにしなやかな手足。

いつか幾瀬も時が過ぎてまた再び、自分がこの光景を、同じように彼女の傍らで目にする時がやって来るような気がしたのだ。

「だから、こんな時にぼおっとしてるんじゃないわよ、クリフトの馬鹿!」

「は、はいっ!」

(いけない、まただ!)

怒鳴られて我に返り、クリフトは慌てて魔法陣に走り寄った。

嵐のような熱風が顔じゅうに吹き付ける。炎はまだ全く勢いを失っていなかった。

(ええと、レミルーラの炎がついたままなのに、その上マヌーサを唱えてもいいのかな?)

(大体、呪文の最後の聖句もはっきりと解らないままだ)

焦って破れさしの紙切れを食い入るように見たが、滲んで読めなくなった文字は、相変わらずどんなに頑張っても判読不能だ。

(ど、どうしよう)

もはや一刻も猶予はない。

いくら武術に長けているとはいえ、幼いアリーナ姫はじきに疲れてしまうだろう。

全ては自分に、この自分に懸かっているのだ。

(神よ、どうかわたしにこの場を切り抜ける力をお授け下さい!)

クリフトは両手を組み合わせて額に当てると、膝まづいて目を閉じ、一心不乱に祈り始めた。

(どうか今この時だけ、哀れな人の子の目では見えざるものを見、聞こえざる声を聞く神の力をお与え下さい!

どうかわたしに、マヌーサを唱える力を!)


その時、まるで一陣の風が立ちすくむ木々の枝を一斉に揺らすように、ざわっという鼓膜を刺す不協和音が、突然クリフトの耳を貫いた。



(……イ……)


(……タイ……)


(アイ……タイ……)



「?!」


クリフトは目を開け、背後を振り返った。

(耳を通り抜けて、頭の中に直接響いて来る)

(なんて悲しげな声……潰れたしゃがれ声で、集中しないと殆ど聞き取れないけれど)

(これは、確かに)

あいつから聞こえて来る。

獣の身体と軟体動物の足を持つ、正視するだに厭わしい伝説のお化け鼠。

「お兄ちゃん、……聞こえるんだね」

クリフトはびくりと身体を震わせた。

今度はあいつとは反対の方向から、聞こえて来る声。

背中に冷たい汗がざわっと湧く。

握りしめた拳をしばらくの間見つめ、息を深く吸い込むと、クリフトは口からゆっくり吐き出した。

(落ち着け、落ち着け……。大丈夫だ)

(わたしには神と、アリーナ様がついてる。なにも怖くない)

(さあ、顔を上げて振り返れ)

(勇気を出すんだ、クリフト!)

精一杯の胆力を振り絞り、ゆっくりと踵を返して戻した視線の先にあったものは、まさに神の悪戯としか思えない、不思議で異様な光景だった。

クリフトは硬直した。


レミルーラの炎の中に、小さな男の子がいる。


身体の半分透けた、アリーナ姫と同じくらいの幼い男の子。


「神様の厚いご加護を受けてるから、ぼくのことが見えるんだね」

オレンジ色の炎の中で、浮遊する小さな影はクリフトににっこりと笑いかけた。

「お兄ちゃんしかいない。ぼくたちを救ってくれることが出来るのは。

お願いだよ、助けて」
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