凸凹魔法陣



走る、走る、走る。


そして足を止め、振り返る。


まるでつがいのリスのように、二人ちょこまかと岩の床を駆けては止まり、等間隔にそれを繰り返す。

レミルーラの炎は魔方陣の中で、未だ衰えることなく燃え盛っていて、引き返すにつれて辺りは、再び煌々としたオレンジ色の光に包まれた。

背後からは内臓まで揺さぶられるような、地揺れにも似た獣の足音が響いて来る。

ゆっくりと頭をもたげ、ついに光の中にその姿を現した、邪悪なお化け鼠を目の当たりにした二人は、言葉もなくただ茫然と、口を開けたまま立ち尽くした。

胃がめくれ上がるような嫌悪感。

喉まで酸っぱいものが込み上げ、嗚咽をこらえる。

巨大なお化け鼠は正確に表現すれば、鼠と呼べる生物ですらなかった。


(なんだ、これは……!)


言いようのない悪臭を放つ、毛むくじゃらの巨大な体。

膨れ上がった胴とは対照的に、取ってつけたような小さな頭。

頬まで裂けた口。

鋭い牙の間からは、絶えず唾液の泡がこぼれ落ちている。

頭の上でぴんと立った大きな耳が、かろうじて鼠らしいと言えなくもなかったが、鼻は四角く穴は左右を向き、むしろ馬のような平たい形状をしていた。

顔中茶色い毛に覆われ、所々に赤黒い血糊がべたりと張り付いている。

そして、最も二人が鳥肌が立つほどの恐怖に襲われたのは、その下半身だった。


(足が、ないわ)


初めて目の当たりにする魔物に、アリーナは血が凍るような衝撃を受けながら、だが決して目を離す事が出来なかった。

(毛だらけのお腹の途中から、まるでカタツムリみたいに足のないねばねばした皮膚に変わっている)

しかも、この地鳴り。粘着質の下半身を這いずらせながら、前進しているのではない。

(跳んでる……!

ウサギみたいに、跳びはねながら追い掛けて来る!)

「アリーナ様、大丈夫です!」

強張ってしまった少女の体を庇うように、クリフトがさっと前に出た。

「クリフト」

「怖がる必要はありません」

青ざめてはいるが、しっかりした口調で言うと、少年は安心させるように笑みを浮かべてみせた。

「妖魔とは、ある意味哀れな存在なんです。

ひとたび人間界に現れてしまった魔物たちは、魔界に戻ることも出来ず、さりとて人の世に溶け込んで、何事もなかったように生きて行くことも出来ない。

魔物だってお腹がすく。すいたら食べるしかない。

彼らはただこうして、彼らなりの生の営みを繰り返しているだけなんですから」

「だ、誰も恐がってなんかいないわよ!」

アリーナはクリフトが差し出した手を振り払うと、憤然と言い返した。

「何よ、急に偉そうにお兄ちゃんぶって。

さっきまでがくがく震えながら、帰りたいようって泣いていたのはお前でしょ!」

「わ、わたしは泣いてなんか……、うわぁぁっ!」

まるで言い争いを始めた二人に苛立ったかのように、お化け鼠が唸り声と共に、突然クリフトめがけて腕を振り上げた。

鋭い爪が刃のように跳んで来るのを、しゃがみ込んで転がり、かろうじて避ける。

爪はそのまま岩に激突し、大きな岩は音を立て、一瞬で粉々に砕けてしまった。

「足を止めちゃ駄目だ!」

気付くのがあと一秒遅れていたら、あの岩は間違いなく自分だった。

血の気が引くのを感じながら、クリフトはアリーナが駆け出すのを待って、全速力で走り始めた。

お化け鼠は緩慢な動作で腕を引き戻すと、ゆらりと体を揺らして追い掛けて来る。

「魔方陣まであと少しです!このまま一気に行きましょう、アリーナ様!」

ところが前方を走っていたアリーナが、何を思ったかくるりと踵を返すと、恐ろしく怖い顔をして、お化け鼠の方向に向かってつかつかと歩き始めたのだ。

クリフトは仰天した。

「ひ、姫様?!なにを……」

「クリフト、マヌーサは霧を呼ぶ呪文だって、言ったわよね」

「は、はい」

小さな牝獅子のような、闘気すら漂うアリーナの表情に、クリフトはたじろいで口をつぐんだ。

「だったら私たち、あいつを霧に包んでからその先、一体どうやって倒すのかをきちんと考えておかなくちゃいけないわ。

倒すのはわたしよ。さっき、蹴りを入れた時に気付いたの。

あいつの手は柔らかかった。鋼みたいになんでも弾き返す、硬い体を持っているわけじゃない。

一箇所、急所を見つける事が出来れば……わたしの攻撃でもきっと倒す事が出来るはずよ!」

「そ、そうか」

とにかく魔方陣までおびき寄せれば、なんとかなると思い込んで、その先の事をまるで考えていなかった自分に恥じ入りながら、クリフトは急いで言った。

「ええと、き、急所とはですね、人間であれば元来、身体の中心線上に星のように点在するものであり……」

「なんですって?」

アリーナは怒鳴った。

「お前はいつも話し方がすごくまどろっこしいのよ!

もっと短く、わたしにもすぐ解るように説明してちょうだい!」

「えーと、だから、つまり体の真ん中を狙えってことです!」

クリフトはやけくそ気味に叫んだ。

「脳天、眉間、喉、臍!

そ、それから、それから……、

き、き、金的!」


アリーナの目がきょとんと瞬かれ、まさにその対象であるクリフトの下腹部に、吸い寄せられるように向かう。

数秒じいっと見つめ、次の瞬間、熟した果実のように耳たぶまで真っ赤になった。

「馬鹿ぁ!そんなもん、あるわけないでしょ!奴の下半身はどろどろしたカタツムリなのよ!」

「じゃあ眉間だ!」

クリフトは叫び返した。

「頭は身体にめり込むようについてる。喉を狙うのは無理です!

姫様のありったけの力を込めた蹴りを、眉間に思い切り、打ち込んでやりましょう!」
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