凸凹魔法陣
「そんな事ありません!」
驚くほど反射的に、口をついて出た言葉。
アリーナが目を丸くして顔を上げる。
「お、お、お嫁さんなら、わ、わた……」
(わたしが、貰ってあげます!
だってわたしは……わたしは、あ、貴方のことが……)
だが喉までせり上がった言葉は、自分の首元できらりと光る銀のロザリオが視界に入ったとたん、唇からこぼれる前につんのめって転げ、胸の底にあっけなく落ちた。
(……そうだった)
(わたしは神に身を捧げた者。立派な神官になるためには、結婚なんて出来やしないんだ)
(おかしいな、なにをがっかりしてるんだ、クリフト……。
例えもし出来たとしても、アリーナ様はサントハイムの唯一のお世継ぎ、たったひとりの聖なる王女様なんだぞ)
(わたしみたいな下賎の者と結婚どころか、本当なら二人きりで会うことすら叶わないお相手なんだ)
(ああ、一体何を考えてるんだろう、主君の姫君に。しかもまだこんな小さな女の子に)
(神様、やっぱりわたしはヘンタイなのでしょうか……)
「なによ?わたが、なんなの?」
クリフトははっと我に返った。
もうとっくに身体を離したアリーナ姫が眉をひそめて、じっとこちらを見上げている。
「ああ、いや……その、わ、わた、そうです、綿!
タンポポの綿毛のように、いつかアリーナ様の元にも、神がお決めになった、たったひとりの運命のお相手がやって来ます、そう言いたかったんですよ!」
「ふうん」
アリーナは疑い深そうにクリフトを睨んでいたが、しばらくしてぽつりと呟いた。
「……だとしたら、もし現れた時、わたしはどうやってその人が運命の相手だって解るのかしら」
「さ、さあ」
自分自身も、まだ全く恋の手練手管など知りはしないクリフトとしては、到底この問い掛けは満足に答えられるものではなかった。
「そ、そうですね……。ある日突然ふーっと、アリーナ様の前にやって来るんじゃないでしょうか。
ナイトのように頼もしい運命の相手が、金色の雲に乗って、格好よく手を差し延べながら」
「雲にねぇ」
アリーナはあどけない顔をしかめた。
「ま、退屈なお城から連れ出してくれるんだったら、雲にくらい乗ってたほうがいいのかもしれないけどさ……」
そう呟くと、もうその話題には興味を失ったように、ふいと背中を向ける。
「それよりもクリフト、もうひとつの呪文は読めたの?休息も取ったし、そろそろ出発するわよ」
「そ、それが」
クリフトはにわかにうなだれて、掌に握りしめた羊皮紙を見下ろした。
「大気に霧を呼び、敵を幻に包む呪文マヌーサ。
文字はなんとか読めるんですが、最後の聖句だけが、インクが滲んで読めないんです」
「なにか思い浮かばないの?それらしい言葉は」
「そんなこと言われても……」
まさか自分が、こんなふうに呪文を必要とする冒険に出るとは思ってもいなかったし、一生を教会で水のように静かに過ごして行くつもりだったから、魔法授業には正直あまり熱心ではなかったのだ。
「なんとか考えてはみるけど……でも、マヌーサは中級呪文です。
まともな魔力もないわたしには、唱えたところでちゃんと発動出来るかどうか」
「だから、また描けばいいじゃないの。力を増幅する魔方陣を」
クリフトは瞬きしてアリーナを見た。
「何よ?」
「……そうか……」
謎の鍵は、魔方陣だ。
もしかしたら、さっきのレミルーラの思いも寄らぬ暴発も、その凄まじい威力の源は、あの魔方陣に隠されているのかもしれない。
(うろ覚えに描いたつもりだったけど、もしかして……合ってたのかな?)
(魔法は全然向いてないと思ってたけど、意外とわたしもいけるんだ)
(それじゃあ一生懸命勉強すれば、わたしにもいつか、唱えられるようになるだろうか)
(いにしえの伝説の大神官のみが唱えることが出来たという、生を司り、黄泉から魂を復活させる偉大なる呪文、
ザオリクを……!)
もしもザオリクを習得出来たなら、この世に蘇らせたい人間は、もうとうに決まっている。
夏の陽射しみたいな強く逞しい笑顔、春風のそよぐような、甘く優しい抱擁。
(父さん、母さん)
(戻って来て欲しい)
(また、会いたいよ……!)
「クリフト!!」
そのとき、胸を引っかく痛みと共に、飛んでいきかけた意識を引き戻したのは、空気を震わすずんという地鳴りと、アリーナ姫の緊迫した叫び声だった。
「また来るわよ!お化け鼠!どうやらあいつは、もうわたし達を無傷のまま帰すつもりはないようだわ!」
(いけない、ぼんやりしてる場合じゃないや)
「一旦引きましょう、あの魔方陣のところまで!」
クリフトは大声で叫び返した。
「ここは狭すぎて、戦うには向いてない!
呪文も試してみたいし、じわじわと下がりながら、魔方陣の所まで奴をおびき寄せるんです!」
アリーナ姫は眉を上げてクリフトを見つめ、それからにんまりと笑った。
「さっきみたいにおじけづいて逃げましょうって、言わなくなったのね」
「わたしはもう逃げません!」
徐々に近付いて来る巨大な獣の足音の中、幼い二人ははったと向かい合った。
「民を怖がらせ、姫様を傷つけた邪悪な存在を、神にかけてわたしは絶対に許しませんから!」
「……それでこそ、わたしの従者だわ」
アリーナは不敵に微笑んで、小さな拳を剣のように振り上げた。
「今のお前なら、大きくなったら腕試しの旅に、一緒に連れて行ってあげてもいいわよ!
さあ、さっさとあいつをやっつけて、サントハイムのみんなを安心させてあげましょ!」
「はい!」