凸凹魔法陣


「ふ、深き、き、霧……の精を呼び……妖魔を惑わせし、じ、呪文の力をここに、

……マ、マ……マヌ?マヌ……サ……?」

まるで邪悪な嵐のようなお化け鼠の攻撃が去って、それから一刻が過ぎた。

地面に座り込むと、少年らしく引き締まった顔をしかめ、黄ばんだ羊皮紙の切れ端を覗き込んで、クリフトはしきりにぶつぶつと呟いていた。

アリーナは向かい側の岩べりに腰かけて肘をつき、奇妙な表情で、目の前の小さな神の使いを黙って見つめた。

袖を通した法衣に、頭に乗せている十字架の刺繍入りのミトラも、明らかにクリフトの身体より大きい。

綻びも目立つし、生地だってよれよれだ。

きっと誰かが散々使い古したお下がりを、あてがわれているのだろう。

自分が身につけている、すべすべした極上の絹の短衣と、手首に嵌まったきらきらした宝石のたくさん埋め込まれた腕輪を、アリーナはじっと眺めた。

そして無言で留め金を外すと、クリフトに気付かれぬように、宝石の嵌まった腕輪をこっそりと暗がりに投げて捨てた。

「お疲れではありませんか、姫様」

不意に掛けられた気遣わしげな声に、どきりとして振り返る。

「だっ、大丈夫よ」

「喉は渇きませんか。それから、その」

「なあに」

「そのう、厠のほうは」

アリーナは顔を真っ赤にして、憤然とクリフトを睨み付けた。

「レディに向かって、すごくぶしつけね!お前がそんな事まで気にする必要なんてないわ」

「あ、そ、そうですか……失礼致しました」

「……でも」

「え?」

「喉は、渇いたかも」

聞くとクリフトは、まるで小さな妹を見守る兄のように、にっこりと笑った。

「はい、どうぞ」

懐に手をやると、中から竹を割って作られた小さな筒を出し、アリーナに渡す。

蓋を回し開けて、くり抜かれた穴を唇にあてると、おそらく井戸から汲み上げたばかりの新鮮な清水が、心地よく喉に流れ込んで来た。

(……いつのまに、こんなものを用意してたのかしら)

冷んやりした水をごくごくと飲みながら、アリーナはクリフトを見た。

(それによく見ると、クリフトが履いてる長靴、ちゃんと滑り止めの縄が巻きつけてある)

(頼りなさそうに見えるけど、意外と旅慣れているのね。さっきの、レミルーラを発動させたのだってすごかったし……)

いくら考えなしの自分だって、なにも本当に子供ふたりだけでお化け鼠をやっつけようと思っていたわけじゃない。

いにしえの呪文を唱えろと、無理難題をクリフトに押し付け、泣いて謝る所を見て気が済むまで笑い、頃合いを見計らって帰るつもりだったのだ。

(わたしよりずうっと弱くて、すぐに悲鳴を上げては怖じけづく、泣き虫の臆病者だと思ってたのに)

もしかしたら自分のほうこそ、クリフトがいないとなにひとつ出来ない、強がりばかり言う臆病者なのかもしれない。

(もしかして、クリフトってわたしにとって、


もしかして……)


「姫様、わたしにもお分け下さい」

「あ」

アリーナは竹筒をひっくり返し、気まずそうに上下に振った。

「全部、飲んじゃった」

「ええっ」

クリフトは悲愴な声を上げた。

「そんなぁ!ずるいですよ!

姫様がさっき、仲間はなんでも半分に分け合わなきゃって言ったんじゃないですか!」

「う、うるさいわね!」

アリーナは空の竹筒をクリフトに押し付けると、ふんと肩をそびやかした。

「お前はわたしより五つも年上なんだし、それに男の子でしょ。水くらい我慢しなさい」

「男だって喉は渇きますよ!」

クリフトは半泣きで口を尖らせた。

「……横暴だ。差別だ。神の前では人は皆平等であるべきはずなのに」

「わ、解ったわよ、もう!」

アリーナは足を踏み鳴らし、仕方なさそうに両手を大きく広げて胸を反らした。

「仕方ないわね。ほら、謝るから。早くいらっしゃい」

クリフトは目を丸くした。

「……なんですか?」

「わたしが悪かったわ。ごめんなさいの抱擁をするの。

次から、なんでも半分こにするって誓う。だから早くこっちに来て、クリフト」

「ほっ、抱擁?!」

クリフトは耳まで赤くなり、ぶんぶんと首を振って後ずさった。

「けっ、け、けけ……結構です!」

「何言ってるのよ」

アリーナは顔をしかめた。

「それじゃ反省の誓いが出来ないじゃないの。

わたしはいつもこうして、抱っこでカーラにごめんなさいを言うのよ。

謝る時も許す時も、その人の目を見て、温度を感じることが大切なの。

お母様はいつもそう言ってたとカーラに聞いた時から、わたしは必ずそうしてるんだから……ほら!」

小さな顔が近付いて来たかと思うと、クリフトが慌てふためいて逃げ出そうとする間もなく、紅葉のような手が巻き付き、幼い互いの存在を確かめるように抱きしめる。

平たい胸に頬を押し付けられて、クリフトは身動きも出来ず、アリーナの背中の後ろで両手を浮かせたまま、茹でだこのように赤くなった。

「……ごめんなさい」

触れ合う小さな身体の間から、か細い囁きがそっと立ち昇って来る。

「はっ……は、はい?」

「わたしってやっぱり、とってもわがままに育てられているのね。

自分ではそうじゃないと思っていても、姫様姫様とおだてられて、いつの間にか優しさや、親切心を持てない子供になってしまっているのよ」

クリフトは目を見開いて、胸の中の鳶色の小さな頭を見下ろした。

「気がついた頃にはもうお母様はいなくて、お父様もお忙しくて、めったに会うことが出来ない。

だからわたし、いつもふて腐れて思っていたわ。

わたしがこんなに自分勝手で意地悪なのは、お父様とお母様にまともに育てられていないせいだって。

だからこんなふうに誰かを思いやることも出来ない、とっても心の小さな人間になってしまったんだって。

……でもクリフト、お前は違うのね。

お前も両親を亡くし、たった一人で生きているというのに、こんなに優しく自分以外の誰かを気遣うことが出来る。

わたし、わたしは駄目だわ。

これじゃ大きくなっても、だぁれもお嫁さんになんて貰ってくれないわよね」
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