凸凹魔法陣


(……まさか……)

「あっ、あ……」

(……まさか、本当に)

「静かに!」

足元から這い上がる恐怖で腰から下が砕け、頭の中が痺れて真っ白になる。

檜の棒をつかんだ手が抑えようもなく震え始め、クリフトは激しく喘いだ。

「か、か、帰りましょう……姫様」

「もう遅いわ!」

アリーナ姫は青ざめながらも、臨戦体制に構えた姿勢を崩す事なく叫んだ。

「地鳴りが近付いて来る。もうわたしたちがここにいることは、あいつには解ってるのよ!

今更逃げたってだめ。逃げるために、わたしたちはここに来たんじゃないでしょ!」

「で、で、でも」

ほとんど丸腰の子供二人が、未知の巨大な魔物に対して、一体なにが出来るというのだ。

後ずさりしかけたクリフトに、アリーナは安心させるように笑いかけてみせた。

「大丈夫。こんな時のために、実はもう一枚あるの」

腰の革袋に手を突っ込むと、またも先程と同じように、くしゃくしゃに丸められた黄ばんだ紙切れを取り出す。

「お願い、クリフト」

「無理ですよ!」

クリフトは受け取ろうとせず、顔を歪ませて激しく首を振った。

「ほ、本当はわたしには、まだ魔法なんて使えやしないんです!

さっきのレミルーラだって、思い付いた出鱈目を唱えただけなんだ!

どうしてあんな火が現れたのか解らないけど、もう無理だよ!

ま、まさか、ほんとうに」

(本当に、伝説のお化け鼠がいるなんて……!)

戦きに二人が立ち尽くしている間にも、ずうん、ずうんと言う地響きは次第に大きくなり、やがて辺りに、獣特有の生温かく鼻をつんとつく臭気が立ち込め始めた。

逃げ出そうにも恐怖のあまり足がすくみ、一歩も動く事が出来ない。

(神様……!)

クリフトは凍りついたまま、からからに渇いた口の中で、何度も祈りの句を唱えた。

(わたしたちを……いえ、姫様だけでいい、どうかお助け下さい!

神様……神様!)


「危ない!クリフト!!」


だが、悲鳴に気付いた時にはもう遅かった。


不意に青白い光の真ん中から、鋭く尖ったなにかが、こちらめがけて激しい勢いで飛んで来る。

クリフトは目を見開いて、自分を貫こうとするそれの正体を、はっきりと見た。


爪だ。



残忍に尖った、お化け鼠の巨大な三つ又の爪。

赤黒い汚れにまみれているのは、おそらくこれまで、無残にも餌食にしてきた者たちの血なのだろう。

自分の体も今から、この爪にずたずたに引き裂かれるのだ。

(死ぬんだ、ぼく……)


脳裏が白い光に包まれ、体からゆっくりと力が抜けて行くのを感じ、クリフトは目を閉じた。

(でも……これでぼくもやっと、


お父さんとお母さんのところへ行ける……)



「させないわよっ!」



その瞬間、霞みかけた意識を取り戻させたのは、幼い少女の甲高い怒号だった。

「アリーナ様!?」

アリーナは巨大な爪が襲い掛かって来るのに気付くと、その場へためらいもなく屈み込み、反動で高々と空中に身を躍らせた。

小さな足を力いっぱい振り上げ、嵐のような勢いで、巨大な爪に横から思い切り蹴りを撃ち込む。

まるで竜巻同士がぶつかり合ったような、どおんという激しい音がして、残忍な獣の爪は突然の反撃に驚いたように青白い闇の中に姿を消してしまった。

アリーナはそのまま、岩の地面の上に転がり落ちた。

「アリーナ様っ!!」

「だ……大丈夫」

痛みに頬を歪ませながら、アリーナはすぐに起き上がり、無理矢理笑ってみせた。

「ちゃんと受け身を取ったからね。なんともないわ」

「で……でも、血が出ています!」

「平気」

アリーナは袖先でぐいと口の端をこすった。

「わたしはいつか、世界一の武術家になるんだから。

たかがこのくらいの怪我ひとつで、痛いなんて泣いてられないのよ」

岩で打ち付けて切れたらしい唇は血が滲み、上を向いた愛らしい鼻の頭も擦り切れて、朱く腫れあがっている。

クリフトは言葉を失ってアリーナを見つめた。

「なによ、ぼうっとして」

「……」

なんて強いお姫様なのだろう。

こんな女の子、見たことがない。

驚きが意識を飛び越え、自分のやっていることの意味を考えるより先に、クリフトの体は勝手に動きだしていた。

黙って近付くとそっとアリーナを引き寄せて、両手で小さな顔を優しく挟む。

「ちょ……っ、き、急になあに!?」

アリーナは真っ赤になりながら、どぎまぎして叫んだ。

「待って、ク、クリフト……わ、わたしたち、まだ子供なのよ!

こういうのはもっと大人になって、けっ、ケッコンしてからじゃないと……」

「……天にまします神の御名において。

癒しの力よ、ここに……」

目を閉じ、ゆっくりと息を吐きながら、クリフトは小さく「ホイミ」と呟いた。

掌に温かな熱が宿ったかと思うと、ぽうと中心から輪を描くように、淡い金色に光り始める。

アリーナはクリフトの手に包まれた自分の顔が、真綿のようなぬくもりに覆われるのを感じて目を見開いた。

やがて柔らかな光りが失せるとすぐに、恐る恐る指先で鼻の頭をこすってみる。

傷は綺麗に消えていた。

「あ、……ありがと」

もじもじしながら言うと、クリフトはにこりと柔らかい笑みを浮かべた。

先程まで見られなかった毅然としたまなざしで、アリーナに掌を差し延べる。

「お貸し下さい」

「え?」

「先程の呪文の紙」

アリーナははっとした。

俯くクリフトの声が低くなり、微かに震えている。

「……許せない」

だがそれは、もう恐怖によるものではなかった。

「アリーナ様の顔に傷をつけるなんて、絶対に許せない。

お化け鼠の奴、絶対に、絶対にわたしがやっつけてやる……!」
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