凸凹魔法陣
明々とした光で照らされた洞窟に響く、かつん、かつんという小さな二つの足音の遥か後ろ。
ぱちぱちと炎の爆ぜる音が、まるでふたりに道標を与えてくれるように、微かに流れて来る。
「……ねえ」
足元の岩を張りぼての檜の棒で擦り、ぬかるんでいないかを確かめていたクリフトは振り返った。
「なんでしょうか」
「……よくあるの、ああいうこと」
「は?」
アリーナ姫は口をへの字に引き結び、何故か悔しそうな表情を浮かべていた。
「だから……ずいぶん火の扱いに、慣れてるみたいだったけど。
お前、もしかしてこんなふうに洞窟に入ったりするのは、初めてじゃないの」
「ああ、そういうことですか」
クリフトは肩をすくめた。
「子供だけで来たのなんて、勿論初めてだけど、神父様のお供で岩山の奥に閉ざされた古い礼拝堂や、
深い森にひっそりと佇んでいる人里離れた修道院なんかには、何度か行った事があります。
宗教において、火は浄めの力。護摩を焚いたりすることもありますから、特に注意して取り扱うようにと、幼少より厳しく教えられて来ました」
「ふうん」
アリーナはまるで今初めて見るかのように、クリフトの顔をしげしげと見つめた。
「な、なんですか」
「神様に祈る以外はまるっきりなんにも出来ない、迷子のウサギみたいにびくびくするだけの弱虫かと思ってたけど、そうでもないのね」
「……さらっと、酷いこと言いますね」
クリフトは呆れたように顔をしかめたが、すぐにぷっと吹き出した。
「でも当たってるな。わたしは神父様のお供で旅に出るのが、嫌で仕方なかったんです。
怖くて怖くて、前の晩は必ず眠れなかった。
ようやく辿り着いても、祈りの聖句なんて全く頭に入らなくて、とにかくここを出たい、早くサントハイムの教会に帰りたいと、そればかり」
「どうしてかしら」
アリーナは小さな首を捻った。
「人を拒む深い森、そびえ立つ岩山、古い言い伝えが息づいているまだ見知らぬ地!
考えるだけでワクワクして、体がぽうっと熱くなって来るわ。
それを嫌いだと思う人が、まさか世の中にいるだなんて」
「多分、忘れられないんでしょう。昔の思い出が」
クリフトは深刻に聞こえぬよう、笑いながら早口で言った。
「わたしの両親は熱心な信仰家で、巡礼の旅の途中、山崩れに遭い亡くなりましたから。
寺院もろとも土砂の中に埋まり、遺体も見つからなかった。
まだ幼くて、教会でひとり留守番させられていたわたしは、その時思ったんです。
どこにも出掛けたりしなきゃよかったんだ。
まだ知らない何かを求めて、外の世界に旅に出たりなんてしなければ、身体がちぎれてしまうような、こんな哀しい思いをすることもなかったのに……、って」
しんと沈黙が落ち、黄色く照らされた岩壁に、二人の影がゆらりと傾ぐ。
クリフトは慌てて大きく手を振った。
「や、やだなぁ、そんなお顔をしないで下さいよ!
もう何年も前の事だし、今じゃわたしもすっかり一人前、神の祝福を受けて毎日元気に暮らしています!
だからほら、こうやって姫様のお供をして、暗い洞窟に入る事も出来たでしょう?
湿っぽい話はやめて、さあ、先に」
クリフトはふっと口をつぐんだ。
小さな手がそっと伸びて、雛をいたわるよう母鳥のように優しく少年の額を撫でる。
見上げて来る茶色い瞳は、涙でいっぱいになっていて、クリフトが口を聞けないでいると、とうとう目の淵からぽろぽろと滴はこぼれ落ち、頬を伝って顎の先から落ちた。
「そっか……お前もお母さん、いないのね」
アリーナは唇を震わせながら呟いた。
わっと泣き出したいのを必死に堪えている様子だった。
「しかもお父さんまで……それに、わたしと違ってお前は、お母さんがどんな人だったのか、どんなふうに一緒に暮らしたのかを覚えているんですものね。
辛かったね。
お母さんとお父さん、戻って来て欲しかったね」
「……う」
クリフトは不意に込み上げて来た感情に、足元がぐらつくのをこらえようとして、唇を噛み締めた。
(駄目だ)
だがそれは上手くいかず、やがてしゃくりあげて肩を震わせ、ついに瞼を擦りながら俯いてしくしくと泣き始めてしまった。
「ど、どうしてそんな事、おっしゃるんですか……。
当たり前じゃないですか、戻って来て欲しいって思うのは。
毎日祈ったんだ、どうか、どうかお父さんとお母さんを、ぼくのもとに帰して下さいって。
でも、神様は聞いては下さらなかった。
ぼくに耐えろって、ひとりでも強くなれって、とても大きな宿題を出したんだ」
「お母様……どんなお姿なのかも覚えていない、優しいわたしのお母様……」
それからふたりは、その場に向かい合って立ち尽くし、思い思いの悲しみにひたりながら、身を丸めてしばらくのあいだ、嗚咽をもらし続けた。
「男の子のくせに、泣き虫なのね」
アリーナはすんと鼻をすすって、涙を手の甲で拭い、照れ臭そうな笑顔を浮かべた。
「さ、最初に泣き出したのは、アリーナ様でしょう」
「あら、わたしはお前がとても泣きたそうだったから、代わりに泣いてあげたのよ」
「代わり?泣くのに?」
「そうよ」
アリーナは小首を傾げてあどけなく微笑んだ。
「わたしたち、今は一緒に冒険をする仲間だもの。
どちらかが辛い時は代わってあげないといけないし、悲しい気持ちは半分こに分け合わなくちゃいけないわ。
そうすれば、きっとどんな困難にも立ち向かってゆける。
どんなに大変な冒険だって、大切な仲間がいれば、必ず乗り越えてゆけるのよ」
クリフトは涙の残る睫毛をしばたたかせ、まるで眩しいものを見るかのように、目を凝らしてアリーナを見つめた。
(……仲間がいれば、乗り越えていけるんだ)
(父さんや母さんの死も、自分がばらばらになってしまうような、あの悲しみも)
(そうだ、ぼくはあれほど恐れていた暗がりも洞窟も、今はもう少しも怖くない)
(それは仲間だから?アリーナ姫様の、仲間になれたから)
(だとしたらぼくは、これからもずっと、この娘の側にいたい…!
姫様を守るために、強くなりたい!)
その時。
ずうんと言う鼓膜の奥まで響く地鳴りの音が、二人の全身を激しく揺らす。
魔方陣の炎すら届かぬ、塗り込めたような前方の暗闇が、次第にぼうっと青白い光を放ち始めた。
アリーナは顔を上げて両手を構え、素早くクリフトの前に飛び出した。
「……来るわ……!」