透明人間の秘密(連載休止中のため未完)
錯乱しながら走り続ける自分を、もうひとりの自分が冷たい目で見ている。
寸分の慈悲もない、冷酷な目だ。あれはもうひとりのわたし。いいや、あれこそが本当のわたしだ。
自分の中の愚かさを一切認めずに、偉そうなことばかり口にしてきた。だって、神の子供と呼ばれる存在が言えるか?愛する人の前で、いい格好がしたかったと。そのために仲間たちを出し抜きたかったと。どんな手を使っても、彼女の中の一番でいたかったと。
彼女。彼女とは誰だ。
無我夢中で駆けながら、クリフトは形のない歯を食いしばった。
(忘れたくない)
でも知っている。人は悲しいほどに、忘れゆく生き物なのだ。
現に幼いころに失った、両親の顔かたちさえもはや正確には思い出せない。記憶は甘いわた菓子のようで、噛み締めたとたんほろほろと溶けて消えてゆく。わたしがこうしてすべて忘れてしまうように、いつか世界中の誰もがわたしのことを忘れてしまう時が、必ず来るだろう。
(それでもいい)
世界中の人間がわたしを忘れても、彼女の心にひとしずくでも、わたしのかけらが残ればそれでいい。
クリフトの中でなにかがちかりと瞬いた。
そうだ、わたしが恐れるほんとうの痛みとは、彼女を失うことではない。
だってわたしは彼女を失わない。
たとえ離れても、たとえおそばにいることが出来なくても、たとえ、彼女の傍らに誰かほかの男が寄り添ったとしても、たとえ彼女がいつか土に還ったとしても。
わたしの想いは変わらないから。
わたしのこの想いは時と共に淡く溶けてしまう記憶ではなく、時と共に永遠にあり続けるものだ。どんな時も変わらない。消えてしまうことも決してない。
ああ、なんと言葉にしたらいいのだろう、それはたましい?宇宙?宿命?それこそが生と死を司る。
原因も結果もない。この星がいつかちりになっても、なにひとつ揺らぐことはない。
だからわたしは、決して彼女を失うことはない。
剣も魔法も、力もなにも持たないわたしが、唯一胸を張って誇れるもの。
(わかった)
それをなんと言葉にしたらいいのか。
愛だ。
だからわたしは生と死の魔法が使えるんだ。
不滅の愛を、持っているから。
彼女がそうさせてくれた。
ばん、と扉を押し開けた。
金色の朝日に彩られた緑が、眼前に広がっている。
透明なクリフトは走り続けた。後を追うように開いたままの扉から、アリーナと勇者と呼ばれる少年が飛び出してくる。
「お前が行け」
背中をとん、と突かれてアリーナは戸惑った。
「でも……、わたしはクリフトを元には戻せないのよ」
「そんなのは後からどうとでもなる」
「どうとでもなるって、なによ!それに、そもそも外に飛び出して行かれたら、姿の見えないクリフトがどこにいるのかわからないし……」
アリーナははっとした。
(歩けば足跡が残る。この言葉を決して忘れないように、アリーナ姫)
急いで地面を見下ろすと、若草がわずかに崩れ、踏みしめられた跡が点々と残っている。
「輪郭が固まっていないということは、靴を履いていないのね。裸足なんだわ、クリフトは」
「ああ、ついでに言うと……いや、なんでもない」
履いていないのは靴だけじゃないぞ、と言いかけて、賢明な勇者の少年は口をつぐんだ。
「さあ、急げ」
「わかったわ」
アリーナは走り出そうとしかけて立ち止まり、くるりと振り返った。
「その……、ありがとう」
勇者の少年は肩をすくめた。
「俺はなにも」
「わたし、もう嘘はつかないわ」
「それがいい」
勇者の少年は頷いた。
「行け」
「うん!」
アリーナは白い歯を見せると、まるで猟犬のように猛然と走っていった。
「……あれは、一国の姫御前の走り方じゃない」
勇者の少年は呆れたように呟いて、ふと思い出したように、左の懐にそっと手を忍ばせた。
羽根帽子の柔らかい感触に指先が触れる。そのぬくもりを確かめながら小さく息をつくと、さっきからちくちくとうずいていたどこかの傷が、ゆるやかに痛みをおさめてゆく。
なんだろう、この感情は。
俺は、あのふたりに嫉妬しているんだろうか?いくら羨んでも仕方ないというのに。
あいつらはまだ気持ちを確かめ合う時間があって、俺にはもうない。二度と伝えることの出来ない言葉は、身を裂くような後悔と共に胸の中にしまうだけ。
たいしたことじゃない。それだけのことだ。
ここでこのまま彼らが帰って来るのを待とうと、勇者の少年は懐から手を抜くと唇を引き結び、閉じた扉に背中を静かにもたせかけた。
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