透明人間の秘密(連載休止中のため未完)





役に立たなければ、わたしは ここにいる意味がない



「……だって、さ」

勇者の少年は切れた指先に丸く膨らんだ血をぺろりと舐めると、静かに後ろを振り返った。

「アリーナ」

冷たい緑色の瞳と、驚きに見開かれた鳶色の瞳が合わさる。

半分開いた扉の隙間に、先ほどからアリーナが立ち尽くしているのをとうに気づいていたのだ。

だからまるで誘導尋問のように、錯乱するクリフトに問いかけた。

誰のために。

何のために。

クリフト、お前はそうまでして戦う?


自分の本当の心に嘘をついて。


「クリフト」

アリーナのほおに白い涙が流れた。

「そこにいるの?」

「誰だ」

姿の見えないクリフトの声は恐怖に震えていた。

「近寄るな。去れ!お、お前は誰だ。わたしのそばに来るな」

「わたしよ」

アリーナは一歩ずつ近づいていった。

「わたし、アリーナ」

「そんな者は知らない」

クリフトは泣いているようだった。

「わからない。思い出せない。あ、あれほど……忘れたくないと望んだのに。

あれほど、絶対に忘れないと誓ったのに……!」

「大丈夫」

心に広がる衝撃をこらえながら、アリーナはゆっくりと歩き続けた。

「忘れたっていい。クリフト、忘れたっていいのよ。

忘れたなら、また思い出せばいいだけなの。知らないなら、ひとつずつ知ってゆけばいいだけなの。

お前がわたしを忘れても、わたしはお前を覚えている。だから大丈夫。何度だってまたわたしたちは、やり直せる」

「馬鹿な!お前がわたしの何を知っていると言うのだ!」

見えない姿のクリフトが、不意にばねじかけのように激しく跳ね上がった。

驚くアリーナをおしのけるようにして、かまいたちのような速さで気配が駆け過ぎてゆく。なにひとつ目には見えなかったが、そこにいた人物らしき存在がここから確かに消え去ったのを感じて、アリーナはしばらく呆然としていたが、やがて困惑の目を勇者の少年に向けた。

「……一体、どういうことなの?」

「俺にもよくわからない」

勇者の少年は肩をすくめた。

「わからないが……ごく簡潔に言えば、クリフト、透明人間、記憶喪失だ」

「透明?……なぜ……いえ」

疑問符が頭の中にあふれかえっていたが、のんびり考えている場合ではないことはわかっていたので、アリーナは短く聞きなおした。

「誰のせいで?」

「黄金の竜の神だそうだ」

「神?」

アリーナは眉をひそめた。

「……そう言えば、さっき得体の知れない男と会ったわ。すごくおかしな雰囲気で、わけのわからないことをまくしたてていたの。

自分のことを「神たるわたし」だとか、「この世のすべてをしろしめす存在」だとか言っていた。

天空の城から降りた娘を無理やり連れ戻したとか、その罪を裁かれなければならないとか……」

勇者の少年は黙って聞いていたが、「もういい」とアリーナの言葉をさえぎって立ち上がった。

「犯人は、十中八九そいつだろうな」

「魔物かしら?デスピサロの手先」

「それもわからないが、クリフトはそうじゃないと言っていた」

「わたしもそう思うわ。見た目は普通の人間を装っていたけれど、魔物の雰囲気とは違っていた。

もっと異質な……なんていうのかしら。飄々としていたけれど、じつはもっと近寄りがたくて、大きくて……」

アリーナは首を傾げた。

「もしかして、本当に神だったのかしら」

「俺に聞いても知るかよ」

勇者の少年は嫌な顔をした。

「誰だろうとかまわない。とにかく、これ以上話がややこしくなるのも面倒だ。お前は早くクリフトを追いかけろ。

そして、ふたりでゆっくり話せ。無事に落ちがついたら、俺があいつを元に戻してやる」

「元に戻せるの?あなたが?」

アリーナはびっくりして叫んだ。

「だったら、どうしてさっさと戻してあげないのよ!」

「お前な……。そもそも、ここしばらくお前たちがごちゃごちゃともめてるから、こんな事態を招いたんじゃないのか」

勇者の少年は呆れたようにアリーナを見た。

「つまり、今のお前たちふたりはそろいもそろって、神だか魔物だか知らないが、得体の知れない他者につけ入られるすきだらけってことだ。

俺があいつを元に戻したとしても、根本的な問題が解決しなければまた同じようなことが起きる。今度は透明どころか、ザキを唱え間違ってあいつ自身が死んじまうかもしれないぜ。

さっきの言葉を聞いただろ。あいつは、役に立たなければお前と共にはいられないと感じているんだ。本当は嫌悪を抱いているザキを唱えてまで、お前の役に立たなければそばにいる意味はない、ってな。

お前たち、何年一緒にいるんだ?このざまの、一体どこが仲のいい幼なじみなんだ。互いに建て前に縛られて、本音なんてなにひとつわかっちゃいない。

そうやって嘘ばかりつき続けているうちに、いつかどちらかが死ぬぞ。大げさじゃなく、もしかすると最後の戦いでどっちもくたばるかもしれない。そうなってからじゃもう遅い。

お前たちの前に現れたのが神だって言うなら、今こそ絶好の機会を与えてもらっているのかもしれないぜ。

だって、あいつは昔からこう呼ばれているからな。そうだろ」

「……神の」

アリーナはうわごとのようにつぶやいた。

「神の、子供」
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