透明人間の秘密(連載休止中のため未完)



(お前、この上何が不満なんだ)



(だったら一体、なにを望んでいるんだ?)



もう長いこと、しくしくとうずき続けていた小さな、でも確かにそこにある傷に強引に手を突っ込まれて、忘れようとしていた痛みにむりやり意識を押し戻されたようで、クリフトは存在のない手を存在のない胸に押しつけた。

「……憎らしいですね」

クリフトの声が低く震えた。

「どうしてあなたは、いつもそうやって涼しげな顔で人の一番痛いところを正面から突くのですか。

それがまさか、運命を導く者である勇者の特性だとでも?」

「べつにそんなつもりはない」

「わたしのことがうらやましいですって?

あなたこそ一体……、わ、わたしの何がわかるというのです」

クリフトは形のない目で勇者と呼ばれる少年を睨みつけた。

「あなたには、わかるはずもない。あなたのようにこの世の誰よりも強く美しく、わたしが焦がれるほど望んでも得ることが出来ないものをすべて手にしているお方に、わたしの劣等感がわかるはずはない。

確かに、わたしは一介の孤児でありながらブライ様にお目をかけて頂き、衣食住に困ることなく恵まれて育ちました。

なにひとつ取り柄などないというのに、たまたまそこにいたというだけでアリーナ様のお世話役という分不相応なお役目を賜り、学校へ通わせて頂き、剣術まで学ぶことが出来ました。

けれど、今こうしてアリーナ様と共に旅をさせて頂きながら、日々痛感するのは己れの無力さだけです。

わたしは剣を握っても、あなたのような天賦の才はない。魔法力もごく中途半端でしかない。あなたのように、攻撃も治癒もなにもかも完璧にこなすことなど絶対に出来ない。

神の教えを説くことはできます。ですがこの魔物の跋扈(ばっこ)する危険な世界で、くどくどしい神官の説法が何の役に立つというのでしょう。

今のわたしは、才能にあふれた仲間たちに必死でくっついている取るに足らないコバンザメのようなものです。

この旅でわたしがしたことと言えば、病にかかってだらしなく寝込み、アリーナ様を困らせ、危険な洞窟におひとりで向かわせてしまっただけ。

この世でたったひとりお慕いするお方を、己れの力で守り抜くことすらできない。わかりますか。わたしにはなにもないのです。

生まれながらすべてを手にしているあなたには、決して理解出来るはずなどない。わたしの痛みや、苦しみが」

「ふざけ……」

勇者と呼ばれる少年はかっとなって立ち上がりかけた。

だが、瞬発的に激(げき)した感情をこらえるようにぐっと唇を噛みしめて目を閉じ、黙ってまたベッドに腰かけた。

「お前は何もわかっていない。

なにも失ったことのない「今の」お前は。クリフト」

勇者の少年は静かにつぶやいた。

「けれど……いつか、必ずわかる日が来るだろう。

人は不老不死じゃない。お前のような聡明で優しい「神の子供」にも、いつか必ずただの人の子として、愛する者の無情な死を看取らなければならない時がやって来るんだ。

お前は神官として教会で育ち、あまりにも人の死を間近に見すぎた。そのせいで、人の死を俯瞰(ふかん)でしか見られなくなっている。

だけどそんな奴に限って、自分の愛する者の死にはとてつもなく弱い。いとおしい存在が天に還ったことを受け入れることが出来ずに、頭を狂わせるほどの痛手を食う。

もしも今、アリーナが死ねば、どんな形であれお前も必ず同じように命を落とすだろう。今のお前は、アリーナなしでは決して存在しえない。

クリフト、今のお前には俺のように愛する者すべてを失ったうえで、無様にも生き続けていることなど出来ないんだ。

お前はまだ、ほんとうの痛みを知らない神官だ。だが、だからこそ、お前はこの世界にただひとり、「生と死を司る者」として生きていけるんだ」

クリフトはぴたりと押し黙った。



……ほんとうの、痛み?


わたしがこれまで生きて来て感じた、数え切れないほどの苦しみやかなしみ、嫉妬や怒り。


そんな、今となってはちっぽけなものではなく、わたしがまだ経験したことのないほんとうの痛みとは、

彼女を失ってしまうこと?

頭がずきりと刺されたように痛んで、クリフトは見えない体をぶるっと震わせた。

違う、そうじゃない。

わたしのほんとうの痛みは、彼女を失うことじゃなく、


(……彼女?)



その瞬間、記憶の袋にぽかりと風穴が空いた。



彼女とは、誰だ?



「あぁっ」

クリフトの甲高い声に尋常ならざるものを感じ、勇者の少年は表情をこわばらせた。

「どうした、クリフト。おい」

「ああ……触るな!」

見えないクリフトが座っているあたりに手を伸ばそうとしたとたん、勇者の少年の左腕は間髪入れず、ばしんと跳ね上げられた。

「……ってぇ」

指の先に、つと血が滲む。 勇者の少年の目が物騒に細められた。 手刀でとっさに抗ったにしても、考えられない俊敏さだ。

「てめー、それでなにが、わたしには攻撃をこなすことが出来ない、だ」

「お前は誰だ!わたしに触れるな」

見えないクリフトは錯乱したようにわめいた。

「あぁ……わからない。わたしは誰だ。お前は誰だ?

正体のわからないお前は……敵だ。た、戦わなければ」

「戦う?なんのためにだ」

「わたしは敵と戦う。戦わなければならない。お守りするためだ。あのお方を」

「あのお方って、どのお方だ」

「どの……誰を?

ああ、わ、わたしは誰を……」

クリフトは見えない体をわなわなと震わせた。

「わからない。わたしは誰だ?わたしは……敵と戦わなければならない。お守りしなければならないからだ。

お守りしなければ。役に立たなければ。そうでなければ、わたしはここにいる意味がない」
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