透明人間の秘密(連載休止中のため未完)
こん、こん、と形のない手で扉をノックすると、中から「誰だ」という愛想のない声が返って来た。
クリフトはあたりを見回し、誰もいないのを確認すると、出来るだけ小さな声で「わたしです」と言った。
一瞬、沈黙が走る。数秒後、鍵ががちゃりと外される音がして扉が開いた。
不機嫌そうに眉をしかめた翡翠色の瞳の少年の顔が覗き、「お前、今頃のこのこ出て来て何のつもりだ。お前のせいで今日の行軍は休みに……」と言いかけ、口をつぐんだ。
「……」
美貌の勇者の少年の切れ長の瞳が、誰かを探すように怪訝そうに左右に動く。
しばらくそのまま瞳だけで周囲をじろじろと見回していたが、やがて肩をすくめて扉を閉めようとし、なにかに気づいたのかぴくりと動きを止めた。
少年がもう一度振り返る。クリフトの背中に、ぞくっと悪寒が走った。まるで獲物を見つけた猛禽類のような表情をしている。
自分には今、体がない。確かに彼には何も見えていないはずだ。だが、勇者の少年の鋭いまなざしは、ちょうど透明なクリフトが立っているあたりをまっすぐに射抜いているのだった。
「誰だ。そこにいるのは」
勇者の少年はまったく視線を動かさずに言った。
「うまく隠れてるつもりかもしれねえが、気配でわかる。考えなしの馬鹿な魔物が、とうとう宿にまで入り込んだか。
5秒だけ待ってやるから、姿を現わせ。おかしなことをしようものなら、今すぐお前の脳天にでかい雷が落ちるぞ。さあ、ギガデイ……」
「や、やめて下さい!」
焦って叫ぶと、勇者の少年は呆気に取られたように瞳を見開いた。
「……クリフト?」
「そうです!さっきからそう言ってるじゃありませんか」
「お前……、だってお前、どこに」
さすがの勇者の少年も目を白黒させた。
「どこにいるんだ。どうして姿が見えない」
「これはですね、じつは話せば長い事情がありまして」
クリフトはあわてて声をひそめた。
「とにかく、まずは部屋に入れて頂けませんか。こうしていると怪しまれます。わたしの姿は誰にも見えません。
あなたは今、何もない場所に向かってひとりで喋っているのと同じなのですよ」
呑み込みの早い勇者の少年は急いで頷き、扉を大きく開け放った。クリフトは身を滑り込ませるようにして部屋に入った。
剣士として研ぎ澄まされた勇者の少年の感知能力は、姿の見えないなにものかが目の前を動くのがどうやらわかるらしく、透明なクリフトが部屋に入ってゆくのを厳しい視線で追うと、すばやく扉を閉めた。
「相部屋の、トルネコさんは」
「食事だ。今日の行軍は中止になった。休みの日はたくさん食う上に、そのあと馬車で道具の整理もするだろうから、当分帰って来ない」
「だと思ったので、思いきってこの部屋の扉を叩きました」
「お前、部屋から出て来もしなかったくせに行軍が無しだと知ってたのか」
「いえ。ですが、姿を現さないわたしを放っておいて出立しようとは誰もおっしゃらないでしょう。わたしを呼びにいらしたのはアリーナ様おひとりだけでした。
ということは、今日はそれ以上わたしを無理に部屋から出す必要はなくなったということ」
「ふん。姿かたちはなくても頭の回りようは変わりないってわけか」
勇者の少年は肩をすくめた。
「お前、今そこに立ってるのか」
「はい。あなたの数歩前ほどに」
「なら、座れ」
勇者の少年は奥のソファに向かって不愛想に顎をしゃくった。
「飯は食ったのか」
「いえ……。ですが、とても喉を通る気分では」
「香草茶をちょうど淹れたところだ。待ってろ」
クリフトはためらいながら、そろそろとソファへ腰かけた。誰も座っていないのに緋色のソファがわずかにきしみ、布地がゆるやかに沈むのを勇者の少年はじっと見つめた。
「ほら、飲め」
陶製のティーポッドから熱い茶をカップに注ぐと、ソファの前のテーブルに置く。クリフトは迷ったが、「ありがとうございます」とカップを手に取り、恐る恐る口をつけた。
白いカップが、突然ふわりと空中に浮く。ある一点で止まり、今度は斜めにゆっくりと傾く。すると、中身の香草茶がこぼれることもなくすこしずつ減ってゆく。
それは仰天するほどあり得ない光景だったが、勇者の少年は興味深そうに見つめるだけで、さほど動揺した様子はなかった。
「……あまり、驚かないのですね」
「俺の幼なじみは不思議な力を持つエルフで、よく姿を隠したり、カエルに変身したりして俺を驚かそうとした。こういうのはわりと慣れてる」
「そのように冷静な態度で接して頂けると、こちらもとても落ち着きます。なにしろ昨日からおかしなことの連続で、頭が変になりそうで」
クリフトは深いため息をついた。
「いかに神の思し召しと言えども、突然のこのような仕打ちはあまりに過酷すぎます」
「昨日、なにがあったんだ」
「それが、皆さんと別れて部屋にいると……」
クリフトははたと口をつぐんだ。
皆さん?
皆さんって誰だ。
部屋にいると、何が起こったのだったか。
頭の奥がずうんと鈍く痺れる。
(思い出せない)
「勇者様」
クリフトは叫んだ。
「わたしの名前を呼んでください」
「クリフト」
「では、あなたの名前は?」
勇者の少年はさすがに驚いて、「おい、どうした」とソファのくぼみの隣に座った。
「落ち着いて、順番に話すんだ。何があった。大丈夫だ、ここには俺しかいない」
「消えるのは姿だけではなく、記憶もなのです。こうしているうちにも、わたしの中の大切な思い出が刻々と失われてゆく。
このままではいずれ、わたしという存在そのものが消滅してしまうでしょう」
「魔物の仕業か」
「魔物……ではありません。そうではなく……あれは、もっと」
クリフトは失われた目を閉じ、頭の奥の記憶の紐を必死でたぐりよせた。
一体、誰だったのだ?突然わたしの前に現れたのは。
……そうだ、銀縁眼鏡に瀟洒な口髭を生やした、真っ赤な蝶ネクタイのおかしな男。
人をけむに巻くような飄々とした物言いの中に、どこか見る者をひれ伏させる強烈な威厳が隠れている。決して瞳を合わせてはいけない。その瞬間、こちらのすべてが彼の存在の中に飲み込まれてしまう。
そう、魔物などではない。さりとて人でもない。
もっと圧倒的な力に満ちていて、その姿を捉えるだけで魂すら吸い取られてしまいそうな、もっと恐ろしい、もっと強大な。
「あれは、神です。
巨大な、天をも統べる黄金色の竜の神」