透明人間の秘密(連載休止中のため未完)
走り続けるうちに、誰の目にも映らない体が不思議な解放感に包まれて、足取りは徐々にかろやかさを増した。
クリフトはだんだんおかしくなって来て、思わず笑っていた。走りながら笑っているという不気味な自分がまたおかしかった。
わたしはなにをやっているんだ?一体。
こんな馬鹿なことがあるだろうか。
この世を救うという壮大な旅の中、アリーナ様の従者として導かれし仲間たちと戦いの日々を送っているはずのわたしが、なぜか突然透明人間になって、裸で宿の廊下を走っているのだ。
記憶が薄れ、もうすぐ存在自体も消えてしまうかもしれないというのに、この滑稽な状況がどうにもおかしくて仕方なかった。これは間違いなく、これまでのわたしの人生で最も奇天烈な経験だ。生涯のうちで二度とないであろう濃い経験を、自分は今しているのだ。
駄目だ、馬鹿馬鹿しすぎてどうしても笑いがこぼれてしまう。クリフトは見えない片手で見えない口元を行儀よく押さえながら、こらえきれずにふふっと声を出してしまい、慌てて口をつぐんだ。
(……こんなふうに笑ったのは、久しぶりだな)
それでなくとも近頃は、自分に自信が持てずに卑屈な愛想笑いばかり浮かべていた。
死の呪文を使う己れへの嫌悪感が常に頭から離れず、そのくせ、強大な力を持つ仲間たちになんとしても遅れを取りたくなかった。だから戦いのたびに、必死になってアリーナの前へと飛び出した。
だが飛び出したって、勝算などなにひとつない。結局はザキに頼るしかない。
剣の腕は天空の勇者の少年やライアンの足元にも及ばず、さりとてマーニャやミネアやブライのように、森羅万象の力を召喚する攻撃魔法も使えない。トルネコのように敵を撹乱(かくらん)させる奇想天外な特技も持っていない。
そうだ、わたしには何も出来ない。
お守りすべき当のアリーナ様でさえ、日々武術の腕は上がるばかりで、もはや仲間内でも圧倒的な強さを誇っている。認めたくはなかったが、なにも自分が躍起になって死の呪文を使わずとも、彼女の実力があれば敵を一網打尽に仕留めることが可能だろう。
毎日、朝陽が昇るたび枝葉を伸ばすすこやかな若木のように、どんどんお強くなられるアリーナ様。
導かれし仲間たちと彼女は同じ場所にいるが、わたしは違う。わたしと彼らの間にだけ残酷なほど太い境界線が引かれている。
その線の名前は、強さ。
(本当は、もっと早く認めなければならなかったんだ)
今ならわかる。わたしは死の呪文を使うことそのものに悩んでいたのではない。
(もっと早く気づくべきだったんだ)
今ならわかる。わたしは滅びてゆく魔物を哀れんでいたのでもなければ、聖職者がザキを使って命を奪うことに苦しんでいたのでもない。
(わたしは、ただ姫様に必要とされなくなるのが怖かっただけだ)
ザキしか頼みの綱に出来ない自分の弱さが憎かった。姫様の第一の守護者という立場を脅かされるのが怖くて、仲間たちの強さにいつも嫉妬していた。彼らと共に加速度的に成長してゆく姫様が、手の届かない所へ行ってしまうようで不安だった。
その煩悶のすべてを、死の呪文を唱えることへの葛藤にすり替えてごまかしていた。そうやって規律正しい聖職者としての体裁を保っていれば、姫様が心配してくれるのを知っていた。
(わたしは自ら進んでザキを唱えていたんだ。
己れを犠牲にして苦しんでいるふりさえすれば、お優しい姫様は決してわたしから離れてゆかないと、心の奥底でわかっていた)
なんと、愚かな。
わがままな利己心のために禁断の呪文を使って魔物を消し去っていたわたしが、その因果ゆえに今度は己れの存在そのものを消されるのだ。
(アリーナ様、申しわけありません)
クリフトは呟いた。
(欺瞞(ぎまん)だらけの罪深いわたしが、こうして神の御手によって裁かれるのは当然です。
わたしはこの旅に出て以来、誰よりもお強い貴女様と足並みを揃えて歩むことが出来ない自分を、常に歯がゆく感じていました。
ザキを使うのなど、少しも恐れてはおりません。わたしは皆が言うような御立派な神の子供ではない。穢れた心を抱える、弱く自分勝手な人の子です。 貴女様のためならば百万回でもためらいなく死の呪文を唱え、喜んで滅びの業を引き受けるでしょう。
それなのにわたしは、己れの醜い嫉妬心をごまかすため、心美しい聖職者として死の呪文を司ることに葛藤を抱えている振りをしていました)
……いつからなのだろう。
そうやって取り繕わなければ、彼女に嫌われてしまうかもしれないと怖くなったのは。
どうしてなのだろう。胸が苦しいほど彼女が好きで、もっと、もっと近くにいたいと思えば思うほど、愚かな自分の本音を知られるのが怖くなったのは。
なぜなのだろう。まるで仲の良い兄妹のように子供の頃から一緒にいて、なんでも話し、時にはふたりだけの秘密をわかちあって、誰よりも心許し合えたはずなのに、いつのまにかそう出来なくなってしまったのは。
(姫様が好きだ。どうしようもなく好きだ。
だからこそ、姫様に失望されるのが―――怖い)
変わりたくないと思う心と日々募り続ける想いは、歳を重ねるほどまるで磁石のように強く反発し、幼かったあの頃と同じように今も彼女のそばにいたいだけなのに、あの頃のように何も考えず無邪気に、天真爛漫にふるまうことはもう出来ない。
けれど、だからこそ。
(こんなにも愚かなわたしが、今、姫様を悲しませたまま消えてしまうわけにはいかない)
クリフトは足を止め、顔を上げた。
目的の場所へ辿り着いたのだ。