透明人間の秘密(連載休止中のため未完)
突然語り始めた正体不明の男を前に、アリーナはいぶかしげに眉をひそめた。
「……なにを言ってるのかわからないわ」
「あなたを見ているとかつてのあの娘を思い出す」
プサンと名乗った口髭の男は思わしげに呟いた。そのとらえどころのない表情に奇妙な陰りが浮かぶ。
「はるか悠久の彼方、風に吹かれし閉ざされた天空の城で、己れの自由が欲しいと声高に訴えたのはあの娘ただひとりだけだった。
皆は今も、あの娘がうっかり雲の切れ間から落ちてしまったのだと思っている。だが違う。あの娘は自由を望んだのだ。新たな生を得るために自ら進んで降りたのだ。
己れの手でつかみ取る自由を夢見て、狭き天空の牢獄から、希望あふれる地上の世界へと」
「あの娘って、誰のこと」
「だがあの娘をわたしは連れ戻した」
プサンはアリーナの言葉などまるで聞いていないように呟き続けた。
「異種族の禁忌を破って人間と結ばれた彼女を、わたしは厳しく裁き、愛する者との仲を容赦なく引き裂いた。
心破れるむごたらしい別れを与え、そのいとし子を罪人の子たる勇者として地上に捨て置いた。
もはやあの娘は天空城を一歩たりとも出ることはかなわぬ。妻として伴侶の死を悼むことも出来ず、母として我が子を腕に抱くことも許されぬ。
娘はそれ以来、毎日泣き暮らしている。時が過ぎ、年を重ねたが暮らしは何も変わらない。目覚めては泣き、悲しみ、泣き疲れてはまた眠るだけだ。自由を求めたがゆえにすべてを失ってしまった。
かつては明るく快活で誰よりも美しく、太陽の化身のようであったのに。
このわたしがすべてを奪い取った。わたしはその罪咎を、いつか必ず引き受けねばならぬだろう」
「ちょっと!なんの話か知らないけれど、いいかげんにして」
アリーナは怒り心頭でプサンの言葉を遮った。
「人の部屋に勝手に入って来ておいて、さっきからなにをわけのわからないことを言ってるのよ。
裁くの裁かないのって、あなたは刑務から逃げて来た囚人か何かなの?だったら早く牢獄に戻りなさい。償いを済ませていない罪人が街なかを自由に出歩いてはいけないわ。
あなたにも良心があるのなら、逃げずに贖罪を引き受けるべきよ。人は罪を犯してしまう弱い生き物だわ。だけど、それはいつか許されるの。
あなたが心から悔い改めればね。すべては、あなたのこれからの行動にかかっているのよ。そうでしょう?プサン」
プサンは呆気に取られたようにぽかんとアリーナを見つめ、次の瞬間声を上げて笑いだした。
「なにがおかしいのよ」
「いや、このわたしもずいぶん長く生きて来ましたが……面と向かって償え、悔い改めろと言われたのはこれが初めてです」
「もしかして、あなたは多少なりとも身分のある人なのではないの」
プサンは面白そうに眉を上げた。
「そうお思いになりますか」
「お城にいた時に散々会った王侯貴族たちと、もったいぶった話し方が似ているもの。
それに、身分が高い人ほど耳の痛いことを面と向かってずばっと言われた経験がないものよ」
アリーナはつんと澄まして言った。
「これまでの自分の短所を省みて、少しは落ち込むべきね」
「そうしてみたいのですが、わたしにも立場というものがありますので、なかなかゆっくり落ち込んでもいられないのです」
「だったら進んで罰を受けるといいわ。そうすれば自分の非が改めて強く感じられるはずだもの。その上で改悛すればいいじゃない」
「残念ながら、わたしには罰を与えてくれる者がいないのですよ」
プサンは言った。瓢げた面差しに初めて泡立つような悲しみの色が滲んだ。
「この世のすべてをしろしめす至上の存在として、これまで高きから見下ろすばかりの生を歩んで来ました。
わたしは命じ、裁くばかりで、己れ自身の罪をただ一度として裁かれたことがありません。だから罪を改める機会に恵まれたこともないのです」
「そんなに偉い人なの?あなた」
とてもそうは見えないけど……と心の中で思いながら、しかしただものではない気配を感じるのは確かなので、アリーナは肩をすくめた。
「あなたにも色々と悩みがあるのね。わたし、あなたの気持ちをなんとなく理解出来るような気がするわ。
身分なんてつまらないものに踊らされて、周りに媚びへつらわれてばかりいたら、自分の考えが正しいのか、誤った判断を下してしまっていないか、時々わからなくなってしまうもの」
アリーナはふと、名案を思いついたように顔を輝かせた。
「そうだわ。あなた、クリフトに会ったらいいのよ。
わたしはとても優れた聖職者を知っているけれど、彼ならきっとあなたにとって必要な贖罪の道を示してくれるはずだわ。
彼は常に忠実な神のしもべで、告解する者に最も正しき答えを与えてくれるの。囚人たちへの慰問もしょっちゅうおこなっているわ」
「ふむ」
プサンは顎をさすって考え込んだ。
「そんなに出来た神官なのですか?その……クリフトという者は」
「出来たも何も、彼以上の神官をわたしは見たことがないわ!」
アリーナはひどく得意そうに胸を反らせた。
「サントハイムではね、「神の子供の蒼き双眸ある限り、牢獄に鍵いらず」という街歌があるくらいなのよ。
つまり、クリフトの前で告解した者たちは心から罪を改めるから、牢獄に鍵をかける必要もないってことなの。
この「蒼き双眸」っていうのはクリフトの瞳のことなんだけど、この歌を聞くたび、クリフトったら「このように晴れがましい歌は分不相応です」とか言って恥ずかしがっちゃって、そんな様子がすごくかわいくて……」
「なるほど」
だがまたしてもプサンは聞いていなかった。
「ではもしかすると、わたしはそのためにあの者から呼ばれたのであろうか。あの者の苦しみという螺旋(らせん)を通して、その実、わたし自身の苦しみを浄化せんとするために。
さればこそ、愚かで優れたあの者の叫びが、遠き天空世界にあってこれほどわたしの耳を突いたのか」
「ちょっと、聞いてるの?またひとりでぶつぶつ言ってるけど」
アリーナは咳払いして言った。
「とにかく、よかったらあなたもクリフトに会うといいわ。じつはわたしも今から彼に会うつもりなんだけど、ちょっとふたりで話したいことがあるから。
もしここで待っていていくれたら、その後すぐにクリフトを連れて来るわよ」
「いえ、その必要はありません」
プサンは首を振った。
「すべてが解決すれば、いずれまた会いまみえることもありましょう。それよりもまず、貴女は彼を救わなくてははならない。
喪われた彼の存在を見つけ出し、がんじがらめに縛られた心に自由の息吹を吹き込むのです。ふたたびお会いできるのはその後になるでしょう」
「救う?」
アリーナは不思議そうに首を傾げた。
「わたしが誰を救うというの」
「さあ、足元を見て下さい」
アリーナは言われた通り足元を見た。ベッドにもぐりこんだせいでブーツの先は薄灰色の埃にまみれ、細かい繊維が絨毯にまでくっついている。
「いいですか、〝歩けば足跡が残る″。
この言葉を決して忘れないように。聖杯を守る剣たるアリーナ姫」
一体あなたはなにを言ってるの……と顔を上げて、アリーナは飛び上がるほど仰天した。
たった今まで目の前にいたプサンが、その場から忽然と消えている。
(わたしの言ったことを忘れないで下さいね。アリーナ姫)
驚きで呆然と立ちつくすアリーナの耳に、風鳴りと共に翼がはためくようなささやきが吹きつけた。
(貴女は自由です。そしてまた、彼も自由なのです。
誰かのために戦うということは、そうしたい自分のために戦うということなのですよ。誰の心も他人に拘束されることなどない。
あなたがたふたりは、いつも自由なのです。
その意味を、おふたりとも生涯忘れなきように)