透明人間の秘密(連載休止中のため未完)
薄汚れた床に顔を押しつけながら、涙が後から後からあふれて来るのは、かび臭さや埃っぽさのせいではなかった。
そう、本当は気づいていたんだ。
もうずいぶん前から。
クリフトはわたしのために死の呪文を唱えている。
剣や魔法の強さでは敵わない新しい仲間たちよりなんとしても先に、自らの手でわたしを守るため。
わたしのことを守るという役目を、他の誰にも渡してしまわないために。
わたしが今のままでいる限り、彼はこれからも最も忌み嫌う死の呪文を使い続けるだろう。
そのせいでどんなに心を削られ、体を病ませても。
わたしのあいまいな態度が、彼をそこまで追いつめた。
ミネアとマーニャが部屋を出て行ったのを確かめると、アリーナはベッドの下から這い出て来た。
寝ころんだ状態で散々泣いたので、顔じゅう涙でぐしょぐしょだ。部屋の隅にある鏡台を覗き込むと、目は腫れて鼻は真っ赤でもはやひどいものだった。
とてもこんなありさまでクリフトには会えない。が、そうも言っていられない。
今頃みんなは出立の支度を整えている頃だろう。さすがにクリフトも、部屋から出て来ているはずだ。金品の管理は彼の役目だし、宿代の清算もしなければならない。
(……申しわけありませんが、もうしばらくひとりでいたいのです)
締めきった扉の向こうから放たれた拒絶の言葉を思い出し、アリーナはまたぐっと泣きだしそうになった。
丸めた握りこぶしに力を入れて、なんとかこらえる。思い出し泣きなんて馬鹿げている。それに、今からクリフトに会いに行くのだ。また涙を流して、これ以上ひどい顔になりたくなかった。
(たかがこのくらいで傷つくなんて、わたしがこれまでどれほどクリフトが意のままになると思い上がっていたかの証拠だわ)
今すぐクリフトに会って、心から謝ろう。
苦しませてごめんなさい。傲慢だったわたしを許して。もう無理をする必要なんてないの。お前はお前自身のためだけに戦っていけばいい。
わたしのために、なんてもう思わなくていいのよ、クリフト。
「う~ん、それもなんだかちょっと違うような気がしますねえ」
突然背後から声がし、アリーナはびくっとして振り返った。
「一体なぜ、他人が取った行動に対してあなたが謝らなくてはならないのです?
彼ならもう、とっくに彼自身のために戦っていますよ。というか、ずっとそうして来た結果がこうなのです。
彼はいつもあなたのために戦い、それはつまり、あなたを深く愛する彼自身のためである。
正確に言えば、彼はあなたのために戦っているのではなく、あなたを愛する自分自身のために戦っているのですよ。そして、そんな自分を不毛だ、愚かだと責めるゆえに苦しんでいる。
言ってみれば、彼は自分で自分の首に縄をかけて、それをぐいぐいと自分で引っ張っては苦しがっているようなものなのです。いや、まったく馬鹿ですねえ」
「あなた、誰」
アリーナは表情を険しくしてとっさに身を屈め、臨戦態勢の構えを取った。
見たこともない男が目の前に立っている。部屋に勝手に入って来ているが、宿の使用人たちとも明らかに様子が違う。釣りズボンに朱赤の派手な蝶ネクタイを締め、口髭を生やした妙な雰囲気の小柄な男だ。
野暮ったい銀縁眼鏡の奥の瞳は親わしげな光を浮かべているが、アリーナにまったく見覚えはない。じっと見ているとなぜかめまいのように視界がぐらつきし、嫌な汗が湧いて来る。
このわたしとしたことが、一体いつのまに背後を取られたのだろうか。武術で鍛え上げたアリーナの第六感が明確な警報を鳴らした。
誰だかわからないけれど、こいつは普通じゃない。この男にこれ以上近付いてはならない。あの目を長いあいだ見つめるのも駄目だ。
「ほう、さすが世界に名だたる強者のおてんば姫の嗅覚ですね。貴方こそ、この世の未来を読み説く聖王家の末裔。炎の翼で空を駆ける鳳。癒しの杯たる神の子供が愛する剣。
お初にお目にかかります、サントハイムのアリーナ王女殿下。わたしのことはプサンと呼んで下さい」
「お前は誰。なぜわたしの素性を知っているの」
アリーナは男から注意深く目を逸らし、首を振った。
「いいえ、そんなことはどうでもいいわ。わたしは今急いでいるの。そこをどいてちょうだい」
「そんなに急ぐ必要はありませんよ。今日の行軍は休みになりましたからね。
これで皆さんまる一日、戦いを忘れてゆるりとくつろげるわけです。まあ、事の解決が果たして一日で済むかはわかりませんが」
「え?」
思わず目を見開いたアリーナに、プサンはにっこり笑いかけた。
「自由をさだめに持つアリーナ姫。わたしは貴女のような人が好きですよ。貴女はそこにいるだけで周りに力を与える光の魂を持っている。
ですが自由とは無限であるがゆえ、時にすべてを奪う危険をもはらんでいることをどうかお忘れなきように」
「なんのことを言ってるの」
「昔、貴女によく似た娘を知っていました」
プサンはほほえみながら静かに語った。
「貴女と同じように、生まれながらに閉ざされた城の中で生きることしか出来なかった娘です。
彼女は若く、そして自らを取り囲む世界に失望していた。貴女と同じように見果てぬ自由を求め、翼を広げて未知の世界へと降り立ったのです。
そして恋をし、運命に導かれるように新たな命を生み落とし、その結果もっともむごい形ですべてを奪われた。
わたしが奪ったのです。その時はそうするしかなかった。今でも深く悔いていますよ。もっとほかに選択肢はなかったのかと。
わたしは神たる存在として、彼女の罪を裁く以外のすべを選ぶことは出来なかったのであろうかと」