透明人間の秘密(連載休止中のため未完)
その頃、件のアリーナはというと、埃っぽい暗がりの中でぼろぼろ涙を流しながら、悔しさと悲しさに歯噛みしていた。
(よかったわね、マーニャ。まんまとあなたの思うつぼよ。
耳の痛いことを言われたことがない驕慢な王女様のわたしと来たら、今ここで立ち直りようがないくらいばっちり落ち込んでるわよ!)
ミネアとマーニャの話し声が近づくのに気づいたとたん、どうしてベッドの下に隠れてしまったのだろう。
足の短いベッドと床の隙間には人ひとり入るぎりぎりのスペースしかなく、前の宿泊客が落として行った食べ物のかすなのか、押しつけたほほにざらざらしたものがあたる。しかも、ものすごくかび臭い。
(ちゃんとベッドの下まで掃除しなさいよね。こんな不衛生な宿にはもう二度と泊まらないんだから!)
ともすればくしゃみが出そうになるのを必死で我慢する。ミネアとマーニャは部屋に入って来たが、ベッドの下のアリーナにはまったく気づかないようだ。当然だ。こちとら熟練の武術家だ。気配を消すのは専売特許だった。
「もしかして、食堂に戻ったのじゃないかしら。クリフトさんを呼びに行っていたから、朝食をまだ食べていないはずだし」
「探しに行ってみる?」
「そうしましょうか」
ふたりとも、わたしのことを心配してくれているのだ。アリーナは鼻の奥がつうんと痛くなった。
なによ。あんな言い方をして責めたくせに、わたしなんか放っておいたらいいじゃない。
ううん、そうじゃない。本当はわかってるの。マーニャはわたしに教えてくれただけ。みんな気を遣って言おうとしないから、敢えて悪役を買って出てくれただけ。
(彼は祖国の世継ぎの王女殿下と一緒に旅をしているのよ。常に気を張りすぎるくらい張っているのは当然でしょ。
そうやっていつも精神的にぎりぎりの状態でいるから、なにごとも必要以上に悩みすぎて疲れちゃうんだわ)
クリフトから少しずつ笑顔が減っているのに気づいたのは、彼の病が治り、ミントスを離れてしばらく経った頃だろうか。
病み上がりでまだ本調子でないのと、見知らぬ仲間が一気に増えたので緊張しているのだろうと思い、最初はあまり気にしていなかった。アリーナ自身も皆と打ちとけることばかりに気が行って、クリフトの様子に注意を払っていなかったのも事実だ。
新しく旅の仲間になったミネアとマーニャは揃って花のようにあでやかで、自分は女性らしさに欠けると自覚しているアリーナのコンプレックスを刺激するには十分だった。輝くように美しい天空の勇者の少年は常に不機嫌無愛想、その美貌とは裏腹に感じ悪いことこの上なく、強烈過ぎる個性を発している。
小山のように大きなトルネコと来たら商売にしか興味がないようで、背中に抱えた道具袋からなにか取り出してはいつもそろばんを打っている。
なんておかしな人ばかり。だが、自分も祖国で散々変わり者のおてんば姫と揶揄されて来たアリーナは、それが嬉しかった。
世界は広い。変わっている人なんて五万といるのだ。作られた常識や既成概念の型にはまることを良しとしない者たちは、こうやって自分の足で広い世界へ飛び出している。
「面白い人たちに会えてよかったね。これからますます楽しくなりそうだと思わない?クリフト」
どきどきするようなこの喜びを伝えたくて、頬を紅潮させながら彼にそう言った。きっと彼もそうなのだろうと信じて疑わなかった。
だがクリフトは目を伏せて困ったようにほほえむと、「そうですね。皆様、味のある方々ばかりで……わたしには羨ましい限りです」と言ったのだ。
「しかも、皆さん大変お強い。あの方たちが姫様と共にいて下さるのならば、もはやわたしなど必要ありますまい」
「なにを言ってるのよ、お前は」
その言葉の裏にどんな思いが隠されているのか知りもせずに、アリーナは笑って聞き流した。今思えばなんと無神経だったのだろう。
「なにを言ってるの。馬鹿ね、クリフトったら」
やがてまもなく、クリフトはザキの呪文を唱えることが出来るようになった。いつだったのか、時期ははっきりしない。
たしか戦いのさなか、目の前に突如魔物が飛び出して来て、傍らにいた誰かが剣を振り上げようとした瞬間、巨大な黒い影が走り、次の瞬間なにもかもがすっかり消えてなくなったのだ。
突然の衝撃的な出来事に皆が呆然と佇む中、真っ青になって最も動揺していたのはクリフト本人だった。
「……お前、すげえな」
なにかを感じ取ったのか、勇者と呼ばれる少年がすぐさまクリフトのそばに歩み寄り、珍しく労わるようにぽんと背中を叩いた。
それにもびっくりしたのだが、 アリーナが一番驚いたのは、硬直したように立ちすくむクリフトの様相だった。
クリフトはこまかく震える自分の手のひらを穴が開くほど見つめ、それからうつろな動作でのろのろとアリーナの方を振り返った。
その目の狂おしい光に、アリーナは思わずたじろいだ。ザキの名残でまだ血の色をとどめている瞳がアリーナをとらえると、瞳孔の中心にばきりと硝子が砕けるかのようなひびが入る。
だがそう見えただけで、クリフトの瞳にはなんの傷痕も刻まれていなかった。鮮やかな紅い色彩も徐々に薄れていつもの蒼色に戻って行き、異様なほど強い光もふっと消えた。
我れに返ったクリフトは何度もまばたきし、アリーナと見つめ合っていることに気がつくと、次の瞬間苦しげに表情を歪ませて顔をそむけた。
まるで、絶対に見られたくないものを見られてしまったかのように。
それからしばらく、クリフトはアリーナと頑なに目を合わせようとせず、話しかけてもこなかった。いつも通りてきぱきと働き、こちらから声をかけると忠実に答えはしたが、それ以上の会話は全く弾まなかった。
ふと気づくと、勇者と呼ばれる若者とふたりで話しているのをよく見かけるようになった。彼も生粋の魔法の使い手だ。きっとなにかを相談しているのだろう。
無口な勇者の少年も不思議とクリフトには気を許せるようで、ふたりが親密そうに語り合いながら何度も白い歯を見せるのを、アリーナは戸惑った思いで眺めるしかなかった。
(しかたがないわ。わたしにはわからないもの)
魔法が使えないわたしには、魔法で苦しむクリフトの気持ちはわからない。
だから、こんな時に余計なことは言わない方がいいんだ。わたしは彼のように優秀じゃない。才能があるゆえに悩む気持ちがわからない。だから彼が苦しんでいる時、ただ黙ってそばにいることしか出来ない。
いつも通り明るく、元気に笑って。
だって無力なわたしは、そうするしか出来ないんだから。
時間が経過すると共に、いつしかクリフトは元の穏やかなクリフトに戻った。アリーナにも以前のように優しく接してくれた。目と目が合うと気恥ずかしげに頬を赤らめた。ああ、これまでと同じクリフトだ。わたしのことを心から大切にしてくれる。
だが死の呪文の闇は確実に彼の内側を蝕んでいたのだ。戦いのたびに誰よりも早く飛び出し、アリーナをかばうように体をすべり込ませると、クリフトはためらいなく何度もザキを唱えた。
命を根こそぎ奪い取る死の呪文は消耗も激しく、戦いを終えた後のクリフトはとてもつらそうだった。彼を苛んでいるのが体の疲れだけではないのは手に取るようにわかった。
だがかける言葉はない。なにをすれば彼を癒せるのかわからない。アリーナに回復魔法は使えないのだ。
ならば疲弊しきった彼に薬草を手渡して「お疲れ様。今日も守ってくれてありがとう」とでもねぎらえばいいのか?そんな思い上がった態度は、とても取ることが出来なかった。
彼がなぜ、手にしたばかりの死の呪文を武器に戦い急ごうとするのか、アリーナにはようやくわかったからだ。
それは、わたしを守るため。
クリフトは他の誰でもない、自分自身の手でわたしを守るために、ザキの呪文を使ってまで戦おうとしている。