透明人間の秘密(連載休止中のため未完)



クリフトが部屋から出て来ない。


一見、大事件のようで、よく考えるとどうということもないようなこの出来事は、しかし導かれし仲間たちのあいだでは大きな衝撃を以って受け止められた。

几帳面を絵に書いたような彼が起床時間になっても現れず、部屋からはなにやら動揺した叫び声まで聞こえて来たという。

迎えに行ったアリーナが半泣きの状態で戻って来、「クリフトは、もう少しひとりでいたいらしいわ」と暗い顔で言って立ち去ってしまったのも、仲間うちの不安を高める結果となった。

「これは……やってしまったわね」

マーニャは声をひそめてミネアに耳打ちした。

「やってしまったって、なにを」

「浮気よ、一夜限りの浮気。あのクリフトだって若くて健康な男だもの。そりゃあ衝動に身を任せたい時だってあるわよ。

本来彼は敬虔(けいけん)なる聖職者なのに、この旅を始めてから神への勤行どころか、寝ても覚めても殺伐とした戦いばかり。おまけに口にしたくもない死の呪文を、毎日嫌というほど唱えなきゃならない。

そんな時、広々した贅沢三昧の部屋にひとりで泊まったせいでつい気が大きくなって、勢いで女の人を買ったのね。きっと飲めない酒にでも酔っちゃったんだわ。

夜も寝ずに散々享楽を楽しんで、ふたりでベッドにしどけなく横たわっていたところを、間の悪いことにアリーナちゃんがドアを開けちゃった……、ってわけ」

「そんなことあるわけないでしょう!下らないことを言わないで」

ミネアは不快そうにマーニャを睨んだ。

「まったく、姉さんはろくなことを考えつかないんだから」

「だって、他に何があるのよ。あのアリーナちゃんの様子を見たでしょ。まるでこの世の終わりみたいな顔して、あれは相当なショックを受けたに決まってるわ」

「だからって、どうしてそれが浮気なのよ」

「まあまあ、おふたりとも。とにかく、なにかあったのは確かでござろう」

黙って聞いていたライアンが口を挟んだ。

「この旅が始まって以来、クリフト殿が寝過ごしたことなど一度たりともない。

もしや、体の調子を崩しているのではなかろうか」

「だったらとっくにべホマを唱えてるはずだわ。またしてもパデキアの根っこでしか治らない奇病にでもかかったのでなければね」

マーニャがそっけなく言った。

「大体さ、朝寝坊くらいそんなに騒ぐことでもないでしょ。せっかく豪華な部屋をひとりじめしてるんだもの。こんな機会はめったにないんだし、たまにはゆっくり眠らせてあげればいいじゃないの。

そもそもあたしたち、クリフトが絶対にミスひとつ犯さないしっかり者だって決めつけすぎなんじゃない?それが彼を追いつめてるんじゃないのかしら。

なまじ、彼は祖国の世継ぎの王女殿下と一緒に旅をしているのよ。常に気を張りすぎるくらい張っているのは当然でしょ。そうやっていつも精神的にぎりぎりの状態でいるから、なにごとにも必要以上に悩みすぎて疲れちゃうんだわ。

たまには好きなことをして好きなように振る舞って、忠実な従者の役目から解放されたっていいじゃないの。いつもいつもアリーナちゃんのお守り役になんか縛られてないでさ」

「姉さん!」

ミネアが鋭く叫んだ。マーニャの真後ろにいつ戻って来たのか、アリーナが顔をこわばらせて立っていた。

だがマーニャは肩をすくめて続けた。

「あら、あたしは間違ったことを言ってるとは思わないわよ。

ね、アリーナちゃん。全部聞いてたんでしょ」

アリーナは答えず、涙のいっぱいたまった瞳でマーニャを見つめた。

「このままじゃいけない。今のままの状態じゃクリフトにとってよくない。だからあなた、彼を楽にしてやりたいってひとりにさせてあげることを提案したんでしょ?

だけどね、たったひと晩のんびりすごしただけじゃ、根本的な問題はなにも解決しないわ。あたしたち、悩む彼のために真剣になにかを変えないといけない時に来てるのよ。

そして、その中心にいるのはあなたよ、アリーナちゃん。彼の心を九割九分締めているのはあなただもの。

申しわけないけど、きつい言葉も愛ある助言だと受け止めて、少し冷静に考えてみて欲しいわね」

「わたし、クリフトを縛っているつもりなんてないわ」

「やれやれ、そうやってみんな言うのよねー、人を傷つけてるのに気づかない当事者は。

「そんなつもりはなかった」っていとも無邪気に、無神経に」

アリーナはかあっと顔を赤らめた。

「マーニャは、クリフトが死の呪文を使うことで苦しんでいるのが、わ……わたしのせいだって言うの?」

「そうとは言ってないけど」

マーニャはため息をついた。

「あたしはどうも気にくわないの。あれほど悩んでるクリフトに対する、アリーナちゃんのわたしには関係ありませんっていかにも他人事のような態度がね。

彼がザキを使うのがあなたのせいだとは言わないわ。でも、彼がなんとしてでも戦いに勝とうとするのは、まぎれもなくあなたのためよね。

こんなにそばにいて、本当にわかんないのかなあ。彼の旅の目的はこの世界を救うためでも、邪悪な魔王を倒すためでもないわよ。

ただ、あなたを守るため。

あの心優しい神官はそれだけのために、呪われし呪文を武器にしてまで戦っているの。アリーナちゃん」
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