透明人間の秘密(連載休止中のため未完)


心を落ち着かせようと深く息を吸い、時間をかけて吐いてみた。

鼻も口もないが、不思議と体内に酸素が取り入れられていく感覚はある。取り込むべき体もないというのに、それでは呼吸出来ているのだ。

恐る恐る腕を持ち上げ、さっきと同じように動かしてみると、空洞を包む長袖が目の前で左右に揺れた。左と思えば左に、右と思えば右に。意思に反した動きはしない。これまで通りとても忠実だ。

「あ、あ」と声を出す。消えうせた顔があった場所の中心あたりから、聞き慣れた音がまろび出る。間違いない、わたしの声だ。一体どういう仕組みなのか、口はないがごく普通に喋ることが出来る。

実体のない足でゆっくりと前に進んでみた。消えた両足が履いている編み上げ式の長靴(ちょうか)が一歩ずつ踏み出される。ベッドまで辿り着くと緩慢な動作で腰をおろした。身体の重みの分だけわずかにシーツが沈む。

それを、クリフトは失われた目でじっと見た。

(物を掴めないのに、重さはある。つまりわたしは意思のある透明な酸素のような存在になってしまったのだろうか)

頭の中は混乱したままだ。解決策はなんら浮かばない。だが、どうやらこれだけはわかった。

わたしの身体は見えないけれど、ちゃんとここにある。

わたしは透明になってしまったけれど、ちゃんとここにいるのだ。

クリフトは努めて冷静になろうと試みた。落ちつこう。脳裏に悲しげなアリーナ姫の面影がちらついたが、ない首を振って無理矢理頭から追い払う。

今は考えるべきは姫様のことではない。なぜこのような状況に陥ったのか、だ。

こうなってしまったのは一体どうしてなのか、原因と結果を論理的な因果関係で繋ぎ合わせれば、元通りに戻る方法が見つかるかもしれない。

(原因と結果?)

その時、ちくりと胸の内側をなにか異物が刺した。

(あなたは生真面目なあまり、常にご自分の行動に原因と結果を求めたがる)

(なんでもかんでもご自分を起点に考えるのはもう止めたほうがよろしい。それはある種の思いあがりでもある。世の中は決してあなたを中心に回っているわけではないのですよ)

そうだ、誰かが自分に皮肉っぽく言ったのだ。誰だったろう?確かここで一緒に酒を飲んだような気がしたのだが。

見る者すべてを吸い込んでしまう異様な目をした、釣りズボンに蝶ネクタイの奇妙ないでたちの男。

(おかしいな、ついさっきまで覚えていたのに急に思い出せなくなった)

(わたしは誰と一緒にいたのだろうか。……いや、そもそも)

クリフトはぐるりと部屋の中を見渡した。

(わたしはなぜここにいるんだ?)

伽羅の香り立つ高価な絨毯に、高価な調度品。こんな豪勢な部屋にひとりで泊まっているのはおかしい。クリフトは考え込み、はっとした。

違う、これは皆のはからいだ。落ち込むわたしを気遣ってくれたのだ。アリーナ様や皆さんが、ぐじぐじと悩むわたしのためにこの部屋を取って下さったのだ。

(……皆さん?皆さんって誰だ?)

背中から寒気が忍び足で這いのぼって来る。

(思い出せない……!)

まるで脳の中に粘着質なペンキを投げ込まれたようだ。頭の働きはどろどろと緩慢で、なにを考えたらいいのかもわからなかった。口の中がひりついたが、そんな気がしただけかもしれない。なにせ今の自分に口はない。実体のない透明人間になってしまったのだから。

(記憶が少しずつ、失われているというのか)

(このままでは身体だけじゃない、わたしのすべてが消えてなくなってしまう)

これまで味わったことのない激しい恐怖がクリフトを襲った。死よりも恐ろしい消失が迫っているなんて。足のない靴先ががたがたと震えだす。

こんなところで終わってしまうのか?わたしは。

まるで最初からこの世に存在などしなかったかのように、体も心も失くしたまぼろしとなって。これまで堅実に築き上げて来た記憶のすべてを手放して。

二度と得がたい美しい思い出も、目を背けて来た苦い追憶も。そしてなにより、いとおしいあのお方のことも忘れて。

(嫌だ!)

クリフトは立ち上がり、先ほど顔を洗おうとした手水台の方へよろよろと歩んで行った。

金箔入りの水を張った盥(たらい)の前で背中を折る。透明な身体がまとう法衣は前屈みの姿勢になった。そのまま勢いよく体を倒すと、実体のないクリフトの顔が、たたえられた水に正面から深々と浸かった。

だが、冷たさも息苦しさもない。跳ねた飛沫がばしゃんと水音を立てることもなければ、水面が波紋を描くこともない。

クリフトの顔はそこにあって、そこにない。形が失われたものは水に侵されることもない。けれど受け入れられている。水はすべてを受け入れ清めてくれる。

頭の内側が少しずつ冷えて来る。そのままの格好でじっとしていると、やがて思考に蔦のように絡みついていたどろどろしたものがすうっと引いて行く感覚があった。

(ブライ様、ライアンさん、トルネコさん。

マーニャさん、ミネアさん。わたしたちを導いて下さる勇者様。

彼らがわたしの大切な仲間。そして……)

大丈夫、思い出せる。まだわたしは忘れていない。

この世界を救うため、天空の勇者のもとへ集まった七つの光。個性豊かな友人たち。

今も昨日のことのように覚えている。無理矢理ついて行った腕だめしの旅。テンペ村での魔物討伐。緊張し通しだった武術大会。消えたサントハイムの人々。息もつけない戦いの日々。

そうだ。わたしはちゃんと覚えている。

(神よ)

クリフトは澄んだ水の中に顔を浸したまま、静かに祈った。

貴方様のどのような悪戯がこんな事態を引き起こしたのか、わたしはじきに、消えてしまうかもしれません。

ですがもしもわたしの記憶が失われてしまおうとも、どうかこの名前だけは覚えておくことをお許し下さい。

これこそがわたしのすべて。

この名前がわたしの存在と共にあることが、これまでわたしの生きて来た意味なのだから。

(アリーナ様)

忘れたくない。この名前だけは。
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