透明人間の秘密(連載休止中のため未完)
突然、意識が空白へと投げ出された。
その時確かに目にしたはずの不可思議な光景は、動かない視界の中で膨張し、やがて光って、光り続けて、
………消えた。
「う……」
どれほどの時間が経過したのだろう。
気づくと、視界に白木造りの天井が広がっていた。背中にベッドのシーツの柔らかさも感じる。
こめかみがずきずきと割れそうに痛かった。クリフトはふらつきながら起き上がり、辺りを見渡した。そして眉をひそめた。
(誰もいない……?)
部屋にはクリフト以外の他人がいたような形跡は全くなかった。大理石のテーブルの上は見事ながらんどうで、使ったはずの酒杯もなければ酒の瓶もない。
ほとんど飲み干したはずの無数の酒瓶は、元通りまったく手をつけていない状態でカウンターに整然と並んでいる。あれほど充満していた酒の匂いも今は少しもしない。
(どういうことだろうか?)
わたしは確か、プサンという謎の男と酒を飲んでいたのではなかったか。
ひとりで大量の酒を飲み干したプサンは、映す者の心を射すくめるような奇妙な目でわたしを見つめ、「あなたはとてもつまらない人間です」と言い放ったはずだ。
そして、突然彼の姿が異様に膨らんで、なにかまったく違う輝く存在がその向こうにかいま見えたような気がしたけれど、あれは一体なんだったのだろう?
目を上げると、窓の外から黄金色の陽光が射し初めている。もう朝なのだ。
そうだ、疲れて沐浴もせずに眠ってしまったから、風変わりな夢を見たのかもしれない。それにしてはいやに臨場感があったけれど。
(―――そなたが忌まわしき死の魔法を手に入れた大いなる原因は、アリーナ姫にこそあるのではないのか。
アリーナ姫さえおらねばそなたは旅に出ることもなく、従って死の魔法をこれほどまで行使することもなかった。
そなたの苦悩のすべての根源は、あるじたるアリーナ姫なのではないのか)
クリフトは眉間にしわを寄せた。プサンの捨て台詞だ。夢だったとわかっても、思い出すとまた腹が立って来る。
「そなたが切に呼ぶゆえこうして来たが」と言って、突然お偉方のような物言いを始めた釣りズボンに口髭のおかしな男。もちろん呼んだ覚えなどクリフトには毛頭ない。第一、どれほど考えてもやはり彼とは知り合いではない。
たとえばもしも、これがなにかのメッセージを示唆する神からの霊夢だったのだとしても、あまりに一方的で横暴に過ぎるではないか。
(もう、忘れてしまおう)
クリフトは疲れたように首を振った。
(そもそもわたしが下らない悩みにとり憑かれすぎているから、このような夢を見るのだ。
旅は続く。心を入れ替えなければ。まもなく皆も起きて来る頃だろう。顔を洗って気分をすっきりさせよう)
ベッドから降り、部屋の隅に置かれている手水台に向かうと、金箔を貼った盥(たらい)に洗顔用の香油を一滴落とした水が張られている。そばには大理石の手鏡と丁寧に畳まれたガーゼ地の手巾が置いてある。
毎朝やるように長身を前屈みにし、両手を揃えてお椀型にすると、冷たい水をひと息にすくおうとしてクリフトはそのまま固まった。
手が、ない。
「……ん?」
人間、あまりに理解しがたい出来事に直面すると、脳が反射的にそれを拒否しようとして思考が完全に止まる。
クリフトも例外ではなく、前屈みの姿勢のまま動きを止め、今自分が目にしているものを理解出来ずに数十秒一時停止した。
いつも着ている教会お仕着せの萌黄色の法衣と、長袖の白いチュニカ。清潔好きを持って任じているため、旅の途中であっても常にまっさらな純白だ。
その袖から出ているはずの両手が、まるごとない。
「う、わああああ!」
クリフトは絶叫して、その場に勢いよく尻餅をついた。その弾みで楕円形の手鏡が床にがしゃんと落ちた。
全身に冷たい汗がどっと吹き出し、心臓が耳元でばくばくと音を立てる。混乱しきって床にはいつくばるようにうつぶせると、床に落ちた手鏡がちょうどこちらを向いていた。
恐る恐る覗き込むと、今度は顔がなかった。首に巻いた橙色のストールから伸びている襟の上は、完全な空洞だった。
「わあああっ」
手がない。顔がない。パニックになりながらなにかを掴もうとしたが、指がないので当然ながら無理だった。
手の突き出ていない白い袖が二本、じたばたと空中をうごめく様はなんとも不気味で、自分でやっているのにクリフトはそれを見てさらに動揺し、もう何がなんだかわからなくなった。
(こ、こ……これはどういうことだ?わたしは一体、どうなってしまったんだ?!)
その時、ドアがどんどんと叩かれた。クリフトはぴたりと口をつぐんで硬直した。
「ちょっと、クリフト?どうしたの。なにかあったの?
ものすごい叫び声が一階まで聞こえたんだけど……大丈夫?」
アリーナの声だ。クリフトの血の気がさーっと引いた。