透明人間の秘密(連載休止中のため未完)
もっと楽に生きていけたら。
これこそが、わたしの人生の永遠のテーマなのかもしれない。
もっと楽に生きていけたら。
もっと楽に生きていけたなら。
……うん?そもそも、楽ってなんだ?
「ぷはーーーっ!!」
グラマラスな女性の肢体のような形の酒杯がもう何度目かの乾杯で宙に踊るのを見て、クリフトははっと我れに返った。
(いけない。座ったまま眠り込みそうになっていたんだ)
あわててまぶたをこすり、高々と持ち上げられた酒杯の中で揺れる紅い酒をうつろな目で見つめる。
もちろん、クリフトの手にしている杯ではない。彼の杯に注がれた葡萄酒はほとんど口をつけられず、膝に乗せた両手のひらで無聊(ぶりょう)をかこち、もはやすっかり温まってしまっている。
「いやあ、たまりませんねえ」
突然現れた男は杯を掲げ陽気な声を上げた。
「なんとうまい。いやはや、とまらない。これぞ人の世を生きる醍醐味。これぞ天上から降臨したる神のしずく、甘くとろける誘惑のアムリタ!
もしも創生神がこの世に酒という甘露を生み出し給わねば、哀れな人間たちの生きる楽しみは八割がた失われてしまったことでしょうな」
「そうでしょうか」
柄にもなく反抗的にクリフトは言い返した。
部屋に充満した酒の匂いに気づかぬうちに酔っていたせいもあるし、勝手に部屋に入って来て、もう二時間以上ものあいだ好き放題飲み散らかしている傍らの男に、いいかげん腹が立っていたせいもあった。
「もしもあなたの論理が正しければ、わたしのような下戸は他の方々が味わうたったの二割ぶんしか人生を楽しめずに生きて来たことになりますが」
「いや、まったくその通り」
男は真っ赤に染めた顔をうんうんと頷かせた。
黒縁眼鏡の奥の瞳は既に焦点を失い、もうすっかりご酩酊だ。ぴんと伸ばした自慢の口髭の先には、赤紫色の葡萄酒の飛沫があちらこちらに乗っている。
「クリフトさん、はっきり言ってあなたの人生ほどつまらないものはありません。
どのくらいつまらないかと言ったら、川底の石の裏にへばりついたまま青緑色の苔をかじって一生を終える、ちっぽけなトンボムシの生涯くらいつまらない。
酒もやらない。煙草もやらない。女もやらない。感情に任せて羽目をはずすことも決してない。好んで繰り返すといえば、膝まづいての神への不毛な祈りだけ。
祈りながら頭の中をいっぱいにしているのは、子供の頃から異様なほど執着しているアリーナ王女への想いだけ」
「いっ、異様……!?」
クリフトは思わず酒杯を床に取り落とした。
「な、なななにを根拠に、あなたはそのような勝手な……!」
「いやですなあ。あなたなどとよそよそしい。わたしの名前はプサンだと申したじゃありませんか。
さあ、プサンと呼んで下さい、プサンと」
(なにがプサンだ!壁にかかった絵の画家のサインを見て、思いつきでそう名乗っているだけのくせに……!)
クリフトの怒りもよそに、プサンと名乗った口髭の男は陽気に「なんだったらプーサンでもいいですよ」などと言いながら、喉を鳴らして嬉しげに酒を飲んでいる。
クリフトはまたもため息をつき、懐から手巾を取り出しながら、のろのろと床に転がった酒杯を拾い上げた。
いったいこの男はいつまで居座る気だろう。カウンターに並べられた数々の酒瓶も、もうあらかた空になっている。
しかし、わたしにも責任があるのだ。もしもこれが勇者の少年だったなら、「てめー、さっさと失せろ」と剣を抜いてとっくに叩き出していることだろう。こうなったのも、毅然とした態度を取ることが出来ないわたしのせいだ。
床にはこぼれた酒で、赤紫色の歪んだ地図が出来ていた。そのちょうど斜め前にプサンが投げ出した足がある。
邪魔でこぼれた酒が拭けないが、彼には足をどける気はまったくなさそうだ。
腹立ちまぎれに思いきり睨みつけたいのだが、やはりそれが出来ない。相変わらずこの男を正面から見ると、眩しすぎる光を無理に見たような、度の強すぎるレンズを嵌めたかのような、説明のつかないおかしな眩暈が襲って来るのだ。
傍らにいながらも、クリフトは先ほどから注意深くこの男に焦点を合わさないようにしていたのだった。
(ま……床はあとで拭けばいいか)
「そうです。ここはやんごとなき王城ではなく、路傍の宿屋ですよ。そんなささいなことはどうとでもなる」
クリフトはぎょっとして顔を上げた。
プサン――と名乗る男――が、げにもという調子でこちらを見ている。クリフトはあわてて目を逸らした。
(わ、わたしは……今、声に出しただろうか?)
「そのようなこともどうでもいい」
プサンは意に介さぬように続けた。
「いいですか、クリフトさん。あなたの一番の問題はその硬すぎる性格です。あなたは生真面目なあまり、常にご自分の行動に原因と結果を求めたがる。
そのような生き方も悪くはないが、さっきも言ったようにつまらない。そして、張本人のあなたがもっとも疲れてしまうでしょう。
床にこぼれた酒はすみやかに拭かれなければならない。なぜならわたしがこぼしてしまったからだ。原因はわたしにあり、ゆえに必ずわたしがそれを解決せねばならない。
あなたは物事において、いつも論理的な因果関係を打ち立てようとするが、なんでもかんでもご自分を起点に考えるのはもう止めたほうがよろしい。
それはある種の思い上がりでもある。世の中は決してあなたを中心に回っているのではないのですよ」
プサンは言った。
「わたしが今ここにいるのは、わたし自身の意思です。こうして酒を飲み始めたのもわたし。気の進まないあなたの酒杯にこの美しい葡萄酒を注いだのもわたしです。
そしてその酒が、わたしの言葉によって驚いたあなたの手から、たまたま床にこぼれ落ちてしまった。どうです、あなただけに原因がありますか。本当にすべてあなた一人の責任だと言えますか。
この世で起きる全ての事象は鎖のようにつながっており、あなたひとりから発信されているわけではない 。
時間とはまっすぐに伸びる過去と現在のかけ橋であり、一秒前の出来事があるからこそ今の出来事があるのです。それぞれの事象が単一に切り離されて存在することはない、とあなたは知るべきだ」
「ずいぶん饒舌ですが、なにがおっしゃりたいのかよくわかりません」
クリフトは顔をそむけたまま言い捨てた。怒りが胸の底からこみ上げ、どうにも抑えきれなくなっていた。
「たった一杯の酒から、それほどまで話が飛躍出来るのは才能ですね。そんなに説教がお好きならば、我が祖国サントハイムのよい教会をご紹介しましょう。
よく知りもしない間柄だというのに、上げ足を取るような横柄な物言いはおやめ頂きたい。
……それに」
悔しいが、声が震えそうになった。唇を噛みしめて続けた。
「わたしがつまらない人間なのは、誰よりもこのわたしがいちばんよく知っています。あなたの言う通り、決まり切った考え方しか出来ない愚か者なのです。
自分で道を選んだくせに、後悔して自己嫌悪に陥る。わたしはいつも、その繰り返しなんだ」
「その腑抜けた自己憐憫こそが、そなたに眠る無限の力を未だ眠ったままにさせているのだとなぜ気づかぬ。神の子供よ」
不意にプサンの声色ががらりと変わった。
「そなたがあまりに切に呼ぶゆえこうして来てみたが、聞かされるのは結局陳腐な悲嘆だけか。
生と死を司る唯一無二の魔法の力が、そなたを苦しめるためだけに与えられているとでも思っているのか?」
クリフトは目を見開いた。
「……プサンさん?」
「言ったであろう。この世のすべては繋がっているのだと」
プサンはゆらり、と立ちあがった。
「神の子供よ。そも、そなたはなぜ強くなりたいと願った。力を求めた。守りたいものがあるからではないのか。
ならばそなたが忌まわしき死の魔法を手に入れた大いなる原因は、守るべき存在であるアリーナ姫にこそあるのではないのか。
元を辿ればアリーナ姫さえおらねば、そなたは旅に出ることもなく、従って死の魔法をこれほどまで行使することもなかった。
そなたの苦悩のすべての根源は、あるじたるアリーナ姫なのではないのか」
「ち、違う!」
クリフトは叫んだ。そして、あっと顔をこわばらせた。
眼鏡の奥で光るプサンの瞳を、正面からまともに見てしまったのだ。
(なんだ、これは……!?)
(目が離せない。視線が掴まれている!!)
視界が端から溶けかけた水あめのようにぐにゃりとうねる。そのくせすこしも目が動かせない。まるで石に変えられたように、身体の自由がまったく効かない。
(苦しい……!)
呼吸がうまく出来ない。指先ひとつ意のままにならず、五感から生じる全ての感覚がプサンの瞳に集約されてゆく。拾い上げたばかりの酒杯が手から滑り落ち、音を立ててまた床に落ちた。
その時、厳しい表情を浮かべているプサンの顔が左右にぶれ、二重、三重にかさなって小刻みに揺れ始める。
白いシャツに蝶ネクタイ、口髭の小柄な男の姿に、時折鈍く光るなにかの残像が透けて見え隠れした。
人ではない、とても巨大で荘厳な、畏敬に満ちたその姿。
(竜?)
(竜だ)
(光輝く翼を持った、黄金の竜がそこに)
(一体、なぜ……)
だがクリフトには、それ以上考えることは出来なかった。
もぎ離すことすら出来ない視界の中で、プサンと竜は交互に明滅しながら次第に膨れ上がり、膨れ上がり、やがてクリフトそのものをすべて飲み込んでしまった。
「己れを憎み、己れを卑下することしか出来ぬ愚かな神の子供よ。まだわからぬか。
それほどまでに自分を憎むなら、望み通りその存在、たった今この手で消し去ってやろう」