透明人間の秘密(連載休止中のため未完)
(……ふう)
ひとりきりの部屋に入ったクリフトは、扉にかんぬきをかけると、寝台にどさりと身を投げ出すように寝ころんだ。
(わたしは一体、なにをやっているんだろう)
夕食をそれほど食べていないのに胃のあたりが重く、肩や背中は軽く動かすだけで古い木材のようにきしんだ音を立てた。疲れはピークに達していた。このまま寝酒でも一杯引っ掛けて、枕に顔をうずめて何も考えずにぐっすり眠りたい。
だが、クリフトに酒は飲めない。それどころか葉巻、水煙草やケムリソウの没薬まで、この世のありとあらゆる嗜好品に縁がない。
時々そんな自分を、つまらない人間だと思う。暇さえあれば神に祈りを捧げるだけで、我が身を癒す息抜きの仕方さえろくに知らないのだ。
(ザキを使った後は気持ちが滅入ってしまって、今日はアリーナ様と満足にお話することさえ出来なかった)
クリフトは目を閉じた。これでは完全な本末転倒だ。
わたしはまず第一に、アリーナ様の従者なのだ。一番に考えなければならないのはザキを使うか否かではない。アリーナ様をお守りするためにはどうすればいいか、だ。
己れの葛藤に気を取られてあるじへの忠勤もままならぬなら、いっそ最初から前線での戦いになど参加すべきではないのだ。
(愚かで弱い、無様なわたし)
弱さの原因は全て、覚悟のなさ。
要はすべて、自分の心がまえ次第。それもわかっている。
どんなにつらくても苦しくても、抜きん出た攻撃力も黒魔法も持たぬわたしには結局、死の呪文しか敵にとどめを刺す手段がない。
邪悪なる存在を倒し、世界が救われるその日まで、これからも自分はザキの呪文とどうあってもつきあって行かなければならないのだ。
故郷のサントハイム城市教会の、エルレイ大司教の教えが頭に浮かぶ。それは子供の頃から噛んで含めるように繰り返され、もはやクリフトの体の芯にまで沁み込んだ言葉だった。
(クリフトよ。なぜお前が皆に神の子供と呼ばれるかわかるか。
自覚するがよい。お前は、「唯一無二」なのじゃ)
(この広い世界をくまなく探せば、あるいはザキの使い手はお前以外にもひとりふたりいるやもしれぬ。
だがしかし、生の呪文ザオリクを手にしながらさらに死の呪文をあやつる資格を持った者は、この世にたったひとり、お前しかおらぬ。
お前は神の御名において、生と死とを同時にその手中に握ることになるのだ。その意味が、わかるか)
(わかり……ません)
幼いクリフトはおずおずと首を振った。
(ぼくには、ザキのじゅもんもザオリクのじゅもんも使えません。なぜ司教様はそのようなことをおっしゃるのですか)
(魔法の使い手とは皆、その精神の器に魔力の根源たる種をたたえるもの)
老エルレイ司教はその目に映る姿の奥にあるなにかを透かし見るように、皺の目立つまぶたを細めてクリフトを見つめた。
(なにも植えておらぬ土壌にいくら水を与えようと芽が出ぬのと同じく、種を持たぬ者がどれほど修行を積んだとて、使えぬものは使えぬ。それが魔法じゃ。
唱え手を自ら選び、選ばれし者は生まれながらにその資質たる種を体内に持つ。そしてそれは、力ある者が見ればすぐにわかるのじゃ)
(じゃあ、司教様にはおわかりになるのですか?
ぼくが……ぼ、ぼくが、いずれザキとザオリクの呪文を両方使えるようになると?)
エルレイ司教はクリフトを見つめ続けた。憐れみと、深い慈愛に満ちた目だった。
(お前はいずれ、苦しむじゃろう)
老司教のしゃがれた声音がいんいんと囁いた。
(心優しいお前はいつか必ず、生を与え、同時にまた死を与える力を得た己れの矛盾を強く責めることじゃろう。
じゃがクリフトよ、心するがいい。お前は神の子供。
神は与えたまい、奪いたまう。死から生が始まり、生は死によってその壮麗な幕を閉じる。そしてまた、死が新たな生という物語をひも解く。命の営みとは生と死の絡まりによって繰り返されるのじゃ。
お前はそれを真に理解し、行使するため生まれて来た。それがお前のさだめなのだ。心せよ、神の子供クリフトよ)
……神の子供、か。
クリフトは自嘲気味にひとり笑った。
わたしはそんな大層なものではない。
わたしはそのような恐れ多い存在などではなく、日々繰り返す戦いの中でたやすく己れの目指す道を見失い、迷い戸惑っては仲間を困らせるだけの、ちっぽけな生身の人の子供です。
しかしその宿命的な言霊は少年クリフトの中で着実に息づき続け、心と体が成長するに従ってみるみる芽を出し茎を伸ばし、やがて彼は死の呪文ザキと生の呪文ザオリク、両方の力を手に入れた。
予言はすべからく事実となる。
クリフトは好むと好まざるとにかかわらず、名実ともに「唯一無二」の神の子供となった。そして老司教の予言通りに苦しみ、そんな自分を強く責めた。