雪花



時は流れ、陰と陽の合わせ鏡はすべからく己れのさだめに殉じた。

闇が目覚める刻限。

身を引き絞るほど望んでやまなかった宿願の果たされる瞬間が、ついに来た。


今こそ、究極の力を手に入れるその時。




深紅のびろうどで包まれた献上台座の上に、まばゆいほど輝かしい黄金の腕輪を認め、魔族の王ピサロは玉座に鎮座したまま、我知らず恐れと困惑の混じった吐息を洩らした。

ついに、手に入れた。

進化の秘法の増幅装置、いにしえより伝わる黄金の腕輪。

これでもう後戻りはできない。己れを捨てて、何物をもひれ伏させる世界最強の力を得るその時が訪れたのだ。

ピサロは玉座から立ち上がり、豪奢なレリーフが彫られ、峻烈な光を放つ腕輪にためらうことなく腕を伸ばした。

だが指先が触れた刹那、落雷のような激しい衝撃が体を一刀に貫く。

ピサロは低い声で呻き、腕輪から手を離した。

なんというまがまがしい呪縛と瘴気。まるで、これ自体が邪悪なひとつの生き物のようだ。

触れるだけで意識と肉体が有無を言わせず乖離させられ、命そのものを乗っ取られるような感覚に襲われる。これが、闇を無限に増幅させる危険な黄金の腕輪の力。

直接触れることは止め、腕輪をびろうどの台座に乗せたまま、ピサロは玉座に坐すると空間移動の呪文を唱えた。

坐している体勢のまま、体と台座が時空のうねりに飲み込まれる。大気がねじ曲がり、次元から空間と距離の概念が剥奪されていく。

瞼を開くと、辿り着いたのは地上ではなかった。

一帯の闇。

破壊と殺戮を尊ぶ、純血の魔物のみが兆両跋扈(ちょうりょうばっこ)する暗黒。目にするもの全てが悲しみと怒りのもやに包まれた、光なき永劫の邪悪の租界(そかい)だ。

この数月のあいだ心血を注ぎ、魔族の王である自分が作り上げた、新たなる闇の地底世界だった。

なぜ御身に秘法を施してのち、地底にこもってしまわれるのです。せっかくのお力を縦横無尽に解き放ち、すぐさま地上世界を滅ぼしてしまおうとなさらないのです、と魔族軍の参謀エビルプリーストにはなじられた。

だが、ピサロには進化の秘法を得て異形の化け物と化した自分を、今ひとたびとどめ置く場所がほしかった。

我れを失った途端、狂ったけだもののように暴れ出し、人間だけではなくロザリーヒルの蒼き塔すらも己れの手で破壊しつくしてしまうのが怖かったのだ。

黙してなにも語らぬピサロに、エビルプリーストは肩をすくめて頷き、「わかりました。ではその折には不肖わたしめとアンドレアル、ギガデーモン、ヘルバトラーの四天王もお供させて頂きましょう」と頭を下げた。

ピサロは驚き、日頃の沈着さも忘れて思わず「何故だ」と尋ねた。

「貴様らまで地底に赴く必要などない。デスパレスに駐留する魔族軍はどうなる。

貴様はいつものようにわたしの知らぬ所でこそこそと、コウモリの如き卑しい小細工を弄していればよい」

「わたしは貴方様の右腕。王の参謀ですぞ。デスピサロ様」

エビルプリーストの瞳に温かい光が宿った。

「このエビルプリースト、どこまでも貴方様にお供致します。王よ、いいかげん臣どもを信用して下さいませ。

デスパレスは我ら重臣がおらずとも、今や若き精鋭部隊が堅い守りを維持しております。そして我ら魔族軍四天王は、いつなんときなりとも王のお傍に。

これより貴方様は、ついに真の魔族の王となられる。わたしはその最も忠実な臣です。デスピサロ様」

深々と臣下の礼を施し、床にこすりつけた顔にかすかに嘲りの笑みが走ったことに、ピサロは気づかなかった。

いよいよ目前に迫った究極の力を得るその時が、さしもの彼からいつもの炯眼な洞察力を奪っていたのである。

「すまない」

ピサロはためらったが、やがて小さく詫び、エビルプリーストに手を差し伸べさえした。

「魔を癒す神官よ。貴様の忠誠に感謝する。

わたしは長い間、貴様のことを見誤っていたのかもしれぬ」

「とんでもありません。わたしはデスピサロ様にお仕え出来まして、心よりの幸せを感じております。

死なばもろとも、どこまでもお供致しましょう」

エビルプリーストは気遣いのこもった声音で囁いた。

「ですが、王。進化の秘法は、肉体と精神を生命の究極の高みへと昇華させるいにしえの遺伝子操作秘術。

黄金の腕輪を使い、ひとたび秘術へ御身を投じてしまわれますと、もう二度と只今のお姿で地上へお戻りになられること叶わぬやもしれませぬ。

今一度、どなたか最後にお会いになっておきたい者がありましたら、つかの間の別れの逢瀬を済まされてはいかがですか」

「……」

ピサロの紫色の瞳がふとさまよい、虚空をとらえた。

(会っておきたい者)

(ロザリー)

(影の騎士)

もう一度だけ、最後に会うことが出来れば。

だが、会えば覚悟が揺らぐのではあるまいか。

いとしい精霊の娘の、きよらかで愛らしい花のようなほほえみ。

友誼を交わした緑金色の甲冑の騎士の、温かく率直で真摯な言葉。





会いたい。





そう感じた瞬間、これまで一度も知りそめたことのなかった鮮やかな思慕が、突然魔族の王の心を埋めつくした。

思慕は奔流となって血肉を駆け廻り、紫色の瞳、銀色の長い髪、邪悪でなければならない闇の一族の支配者として生きる彼の全てを激しく覆い、やがてあふれた。





会いたい。





会いたい。





そうだ。わたしはあのふたりが好きだった。


わたしはまもなく、この姿を失う。真の魔族の王となるために。


わたしの後には、もう何も残らない。ただの一匹の狂ったけだものになる。


今その最後の時を目前にして、あの蒼き塔で過ごした時間だけが、わたしの虚しい生の中でたったひとつの確かなものだったように思える。


わたしはきっと、間違ったのだ。


どこかで、なにかを間違ってしまったのだ。


あの娘が共に見たいと望んだ、うつくしく咲くけれど、やがて溶けて消える雪花。だが、消えてしまうのは雪花だけではない。


なにもかも、いつか必ず消える。大切なものも、愛するものも。


ならばわたしは、もっと心から愛するべきだった。


ロザリーと、影の騎士を。


愛するとはどんなことなのか、知るべきだった。


消えてしまう雪花から目を逸らさずに。






……もしかしたら、今ならまだ間に合うかもしれない。







「地上へ戻る」

ピサロは漆黒のマントを腕で払った。

「ええ、行ってらっしゃいませ」

エビルプリーストはにこやかにほほえみ、うやうやしく一礼した。

「いとしいお方とのお別れを、どうぞ存分に惜しんでいらっしゃいませ。デスピサロ様」

ピサロは移動魔法を唱えた。

時空がねじ曲がり、体が浮遊する。この一瞬一瞬に費やされる時間すら、今はもどかしかった。

(ロザリー)

(影の騎士)

もしも会うことが出来たら、間に合うかもしれない。

立ち止まって、蒼き塔で過ごした懐かしいあの時間に戻ることが出来るかもしれない。





ふたりに会えたら。
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