雪花
数刻が過ぎた。
ロザリーヒルの蒼き塔を後にした導かれし一行は、白馬パトリシアが引く馬車に揺られ、かの辺境の地から粛々と遠ざかっていた。
沈黙が水のように馬車内を満たす。
馬のひづめが土を蹴る音と、車輪が土埃を巻き上げながら回る音だけが規則的に響く。
魔族の王デスピサロの寵姫、エルフのロザリーとの邂逅(かいこう)を終え、その悲しい訴えを聞いて後。
みな疲れ切ったように誰も口をきかず、膝を折ってうずくまり、思い思いの想念に沈みながら遠くの山嶺をぼんやりと見つめている。
「勇者様」
御者席にひとり座り、手綱を手にして馬を駆っていた勇者の少年のもとへ、クリフトがそっと近づいて来た。
「お疲れでしょう。交代しましょうか」
「いや、いい。お前こそ背中の傷は」
「回復呪文で治療しましたから、わたしはもう全く問題ありません。
少し仮眠を取られては。お顔色が悪くて、今にも引きつけを起こしそうですよ。手綱さばきも危なっかしくて見ていられません。どいて下さい」
「それ、気を遣ってるつもりか」
「そうですね、すこしは」
「ならお前、俺の横に座れ」
勇者の少年は、前方を見つめたまま言った。
「話し相手になってもらう方が、気を腐らせたまま寝るよりましだ」
クリフトはほほえんだ。
「では、そうさせて頂きましょう」
白馬の真後ろの御者席に並んで腰を下ろしたふたりは、それからしばらくなにも喋らなかった。
「……あいつのあの言葉、どう思った」
先に口を開いたのは、勇者の少年のほうだった。
「あいつとは、あの魔族の騎士ですか」
クリフトが穏やかに答えた。
「あれほどの深手を受けながら、最後まで地に昏倒することなく、仁王立ちのまま絶命して行きました。敵ながら見事な守護者ぶり。
ピサロナイトとは恐らく、魔族の王の移し身の騎士でしょう。いにしえより、王は最も己れに近き存在を影武者に立てると言います」
「そんなことはどうでもいい」
勇者の少年はそっけなく言った。
「俺が言いたいのは……」
「わかりますよ」
クリフトは頷いた。
「我々人間も憎しみの心を持つ限り、悪だ。ただの血に飢えた悪鬼だ、というあの言葉ですね」
「……心を、読まれたのかと思った。あの時」
手綱を持つ勇者の少年の手は、山奥の村を出て以降、なにかを強く握ろうとするときに必ず出るいつもの症状で、かすかに震えていた。
「俺は外の世界に出て以来、たぶん……、憎いという思いでしか戦ったことがない」
「まだ、今はそれでも仕方がないのではありませんか。負の感情から解き放たれるには時間が必要です。
あなたはちゃんと、前を向いて生きていますよ。わたしはそんなあなたを尊敬しています」
クリフトは少し迷ってから言った。
「この旅を始めるまで、わたしは教会で神官として、憎しみを捨てなさいと皆に教えを説いていました。
ですが、こうして祖国の民が神隠しに遭い、明日をもしれぬ戦いの日々に身を投じて初めて、実感として思うのです。
憎しみとは、口で言うほどたやすく捨てられるものではないと」
勇者の少年はクリフトを横目で見、逸らした。
「聖職者の言葉か、それが」
「わたしは今、自分自身の言葉で貴方と話しているのです。職業は関係ありません」
クリフトは表情を変えずに続けた。
「どうして、こうなってしまったのだろう。なぜ、わたしがこんな思いをしなければならないのだろう。
今がつらければつらいほど、この状況を作った原因である存在がたまらなく憎いと思う。
その思いは火を吹き、己れ自身も焼き焦がし、時に誰かをいとしいと思う以上に強さと激しさを持ってしまうこともある。
ですが、わたしたちは生きている。生きとし生けるものはみな、心と体というふたつの命の器を持っています。
体を動かせるように、心だって動かせる。人は石像ではない。どんなにつらくても、立ち止まり続けることは出来ない。動いて、生きなければならない。
同じ憎しみにとらわれ続け、心をうずくまらせていることは怠惰なのです」
クリフトは言った。
「回り始めた運命の歯車は、残念ながら口当たりの良い祈りや言葉だけでは、もう止めることは出来ない。
立ち止まっていては、なにも変わらない。今を変えたいなら体を、心を動かさなくてはならない。
そこで初めて、目の前の景色も動く。憎しみ以外の何かを見つけ出せるはずだから」
口にするうちに次第に感情が高ぶって来たのか、クリフトは頬を紅潮させた。
「戦いなんて、絶対にやめた方がいい。なにごともなく平和に、静かに穏やかに生きて行けたら素晴らしい。
そんなことは百万回も叫びだしたいほど、心の底から解っています。
ですが、動かずになにが始まるというのですか。かかわらずに傍観し、もっともらしい正当な意見だけを述べることが変化に繋がるというのですか。
皆はよく口にします。戦いは怖い。災いが起きるのは怖い、と。
そのくせ、血で血を洗ういくさを取り上げる英雄伝にはうっとりと憧れ、自分たちに関わりない場所で起こった災害には、興味本位で無神経な噂話をまき散らす。
それは、真の意味で戦いを怖れているとは言わない。戦いに自分が巻き込まれることだけを怖れているのです。
災いそのものが怖ろしいのではなく、自分の身に災いが降りかかることだけを恐れているのです。
でもそれでは、わたしたち人間は……!」
「おい、落ちつけ。クリフト」
「……あ」
クリフトははっとして、顔を赤らめた。
「も、申し訳ありません!つい」
「まったく……、聖職者ってのはどこまでも説教好きだな。放っておけばいつまでも御託を並べ続ける。
お前がごちゃごちゃ言うから、俺の言いたかったことがなんだったか忘れちまっただろ」
勇者の少年は呆れたように肩をすくめ、唇に小さく笑みを浮かべた。
「でも、わかる」
「え……?」
「お前の言う、体も心も動かさなきゃ変わらないって言葉の意味が」
勇者の少年は、震えの止まらない手のひらで白馬の手綱を引いた。
「俺は、立ち止まるつもりはない。これからも必要がある限り戦う。
それは、もう二度とあんなことが起こって欲しくないからだ。
でも、戦うたびに気づく。俺の中には憎しみや恨みや、どうしても許せないって気持ちが、まだ火傷しそうに熱いまま残ってる。
だけどその気持ちはきっと、俺たちがあの騎士を倒さなきゃならなかったように、べつの場所でべつの憎しみと戦いを生む。
憎しみは、不思議なくらい新しい憎しみを呼ぶんだ。
お前の言ったように、これまでの俺は災いそのものじゃなくて、災いが降りかかった自分の運命を憎んでいたのかもしれない。
でも俺は、止まりたくない。
変わりたい。
だから、これからはこう思うことにする」
クリフトは、勇者の少年の横顔を見つめた。
「こう……、とは?」
「あんなことが起きたのが、俺でよかった」
勇者の少年は前を向いて言った。
「あんな目に遭ったのが、この世界の他の奴らじゃなくて、俺でよかった。
あんな悲しい目には、絶対に誰にも遭ってほしくない。
すげえ、笑っちまうくらいつらかったからさ。
本当に……しんどかったんだ。でも、今日限りもう二度と言わない」
「はい」
思わず目頭が熱くなり、クリフトは慌てて法衣の袖で瞼をこすった。
「よく、ここまで乗り越えられました」
「乗り越えてなんかない。起きてしまったことを、なにもなかったことには出来ない。
ただ、止まりたくないんだ。俺は生きている」
勇者の少年はうつむいた。
肩に垂れた長い髪が、彼のうつくしい横顔を隠した。
「なあ、クリフト。強かったな。あの鎧の騎士」
「はい」
「俺ひとりだったら、勝てたかどうかわからねえ」
「敵ながら、凛然とした立ち居振る舞いと堂々たる武勇、まことに天晴でした」
「あの、塔の最上階に住む精霊の……」
「ロザリーさんですね。魔族の王の恋人の」
「俺の知ってる奴に、すごく似てるんだ」
少年は呟いた。
「あんなに悲しそうな顔をしているのを見たら、まるで……、俺の知ってる奴が悲しんでるみたいで、つらくなった。
あの人が、笑えるような明日が来ればいい。
あいつが笑えるはずだった明日が来ればいい。
俺はそんな日が来るまで、これからも戦う」