凸凹魔法陣


---そして、それから三時間が過ぎた頃。


岩の裂け目から吹き込むひゅうひゅうと言う甲高い風鳴りの音が、恐る恐る歩き続ける幼い冒険者二人の、小さな足音を掻き消した。

「わあっ」

目の前を突然、黒い何かが横切り、クリフトは情けない悲鳴を上げて後ろにひっくり返った。

「な、何よ、急に!びっくりするじゃないの!」

「いっ……岩コウモリ……でした……」

かさかさと羽音を立てて上下に飛び回る夜空の住人は、突然現れた闖入者を拒むように、赤い目をぎらりと光らせた。

「ふん、コウモリくらいなによ。弱虫なんだから」

アリーナ姫はつんとそっぽを向くと、クリフトに手を差し延べた。

「ほら、さっさと立ちなさい」

「は、はい……すいません」

強引さに押し切られ、こっそりと二人で街を抜け出してはみたものの、さっきから男の自分ばかりが、暗闇に怯えては叫び声を上げて倒れ込み、揚げ句の果てに五つも年下の女の子に助け起こされている。

クリフトは情けない思いでいっぱいになりながら、アリーナ姫の手を取り、はっとした。

(……あ)

真夏の木の葉のような、みずみずしい小さな手。

ぴんと伸ばされた指先が、小刻みに震えている。

(怖いんだ……姫様も)

(そうか……当たり前だよな。まだ、こんなに小さいんだもの)

(男のぼく……わたしが、守ってあげなきゃいけないんだ)

胸の底の深いところに眠っていた、少年の小さな勇気に火が灯る。

クリフトは、アリーナ姫の手を握りしめると立ち上がり、両足にぐっと力を入れ、胸を張って大きく息を吸い込んだ。

「もう大丈夫です。岩コウモリは吸血種じゃないし、慣れてしまえばなんてことありませんよ」

「そんなの知ってるわ。お前が一人で騒いでただけでしょ」

「ぐ……も、申し訳ありません」

「それにしても、思った以上に大きな岩山ね」

アリーナ姫は感心したように、首をめぐらせて辺りを見回した。

「これなら本当に、お化け鼠が住んでいてもおかしくないわ」

「ま、まさか……やめて下さい」

二人はいつの間にか、しっかりと手を繋いでいる事すら気付かずに、そのまま再びそろそろと前進し始めた。

刃物の切っ先のように、鋭く尖って空を睨む岩々の峰。

その頂きを仰ぎながら、岩の並びに沿って、足を踏み外さぬように慎重に進むと、やがて無数の刺に覆われた潅木の茂みの奥に、巨大な黒い口をぱっくりと開けた洞窟が現れた。

「やったわ!ついに、辿り着いた」

「や、や、やっぱりやめましょう!」

先程の決意もあっさりと忘れ、クリフトはアリーナにしがみつきながら叫んだ。

「こ、こんな洞窟に勝手に入って、もしなにかあったら、お、お、お仕置きどころでは」

「しっ、静かにしなさい!馬鹿ね、気付かれたらどうするのよ!」

ひっと呻いて、クリフトは口をつぐんだ。

「街の噂で聞いたの。お化け鼠は鬼火と共に、地響きのような唸りを上げて現れる」

「ひぇ……」

「だから静かに。解ったわねクリフト、

し、ず、か、に、するのよ!」

「は、はいっ」

人を喰らう恐ろしい魔物よりも、目の前で自分を睨み付ける少女のあまりの迫力に気圧されて、クリフトは何度も頷いた。

「でも……中は真っ暗だし、明かりがないと進めないんじゃ」

「大丈夫よ。こんな時のために、取って置きの秘策があるの」

アリーナはにんまりと笑うと、ここぞとばかりに腰に巻き付けていた革袋に手を突っ込み、中からくしゃくしゃに丸めた、破れさしの紙の切れ端を取り出した。

「ほら」

「なんですか、これ……古代文字?魔法の呪文?」

「古き時代に伝説の勇者ロトの子孫が使っていたという、太古の魔法よ」

難解な古代文字が細かく書かれた紙を広げると、アリーナはひどく重大な事を告げるように、声を潜めた。

「暗闇に光を集めるいにしえの呪文、『レミルーラ』。

これを使えば、どんなに深い暗闇も、たちどころに眩しい明かりに照らされるというわ」

「す……すごい」

クリフトは目を見開いて、未知の呪文が描かれた黄ばんだ紙切れを食い入るように見つめ、

それから次の瞬間、自分の耳を疑った。

「さ、とにかく時間が惜しいわ。

早く唱えなさい、クリフト」

「……はい?」

アリーナ姫は眉間に可愛いらしい皺を寄せて、至って真剣そのものの顔で、クリフトを見つめている。

「あ……あのう」

「何よ、早くしてちょうだい。

こうしている間にも、邪悪なお化け鼠はわたしたちの気配を感じ取り、こちらへとじわりじわりと忍び寄っているのかもしれないのよ」

「……」

クリフトは凍り付いたまま、ひくくっと頬を引きつらせた。

(落ち着け、落ち着け。クリフト)

(ここで、ぼくにはこんな魔法使えないと知ったら、これを頼みにしていた姫様はさぞかし怯え、取り乱してしまうことだろう)

(なんとかしなくちゃ……なんとか、男のぼくが)

それでも人は窮地に立たされると、自分では思ってもみなかった才覚を発揮するものらしい。

矢のように目まぐるしく回っていたクリフトの頭の中で、不意に一筋の光明がきらっとまばゆく輝いた。

「お任せ下さい、姫様」

クリフトは何度も唾を飲み込むと、精一杯声を張り上げて言った。

「その古代魔法、このぼく……わたしが、見事ここに復活させてみせましょう!」
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