雪花



緑の目をした少年は、歩いていた。


ここは夢とも、現実とも判別できぬ、虚ろな偽りの世界。



一歩一歩、大地を踏みしめて着実に進んでいるはずなのに、景色は変わらない。

肌にまとわりつく空気は重くねばるようで、歩いても歩いても前に進まない。

手足はくさびを打ち込まれたように自由に動かず、投げかけられる言葉の全ては意味を失くす。空と大地の境目は曖昧で、自分が今、どこに向かっているのかもわからない。


解るのは、もうどこにも行くべき場所なんてないということ。


ある日突然、わけもわからぬうちにぜんぶ失くした。




たったひとり、外の世界に放り出されてさまよっていると、仲間、と呼んでもいい人間たちがそばにいてくれるようになった。

優しい人たちだ。故郷では聞いたこともなかった神の教えを説く神官の青年や、孔雀みたいに派手な格好をした騒々しい踊り子の女。

筋骨隆々の戦士、才気豊かな商人の男。口うるさい魔法使いの老人。物静かな占い師の女。向日葵みたいな笑顔のお姫様。

総じて皆、優しい。だが総じて皆やり方は違えど、優しさという形をとって腫れ物に触わるように自分に気を遣っている。

皆、自分のことを「勇者様」と呼ぶ。

聞きたくない。

聞きたくない。

自分はそんなものになりたいと言った覚えはないし、「様」と呼ばれるような身分でもない。今となっては生まれもはっきりしない、世間知らずのなにも出来ないただの十七歳の子供だ。

そう、自分にはなにも出来なかった。

なにひとつ。

眠るたび、毎夜恐ろしい夢にうなされる。目の前に消えては浮かぶあの光景。村を焼き尽くす紅蓮の炎。唾液の泡を吹いてうごめく魔物の黒い影。

瞼の奥に血飛沫の残像が飛んで、耐えがたい痛みが全身を駆け廻る。胃が焼け焦げるような恨みと憎しみで、体がばらばらにちぎれてしまいそうだ。

自分と同じ姿に変貌し、「あなたとあそべて、楽しかった」と笑って消えて行ったエルフの少女。

(デスピサロ様、勇者めを討ち取りました!)

誰が、俺からあいつを奪った?

(デスピサロ)

聞いたこともない名前だ。

だけど、一生忘れない。

(……殺してやる)

あいつの痛みを知らせてやる。

父さんの、母さんの痛みを知らせてやる。

小さな頃から俺に戦い方のすべてを教えてくれた、優しい剣の師範の痛みを。

自分を守り、大切に育ててくれた村人たちの痛みを。

(殺してやる。復讐してやる)

でも、鏡を見る。

デスピサロという憎い仇を、何万回もずたずたに切り刻んで殺してやりたいと、狂おしいほどの憎悪にかられる自分の顔を鏡で見つめる。

そのとたん、心の防波堤はあっけなく壊れた。

こめかみが熱く痺れ、驚くほどの涙がどっとあふれ出して、少年の白く削げた頬を伝って落ちた。

(……シンシアに、見せられねえや。こんな顔)

(あいつは今の俺を見たら、一体なんて言う?)

少年は床に膝をつき、たったひとりで声をあげて泣いた。

あんなにずっと一緒にいたのに、こんな時大好きなあの少女がどんな言葉を口にするのか、わからない。

彼女と共に過ごした幸せすぎるほど幸せな時間の中で、誰かを恨んだり憎んだり、怒りを覚えたりしたことがなかったから。

ただひとつはっきりとわかるのは、シンシアはたとえ自分の身になにが起きようとも、決してその対象を恨まない。憎まない。

どんなに悲しい目に遭ったとしても、彼女ならきっとほほえんで、そうするしかなかった相手をかわいそうだ、と思うはずだ。

そしてそれはおそらく、この星に生きとし生けるものが持てるもっとも崇高な強さだ。

「俺は、どうしたらいい。シンシア」

少年は濡れた頬のまま、鏡の向こうの自分に問いかけた。

「俺は、どうすればいいのか解らない。

だから、お前の望むように生きたい」


迷った時は、いつも「だいじょうぶだよ」と笑って手を差し伸べてくれた。


あなたは異端じゃない。奇跡なんだよ、とほほえんでくれた。



あの手がもう取り戻せないのなら、あの手が導いてくれるはずの道へと、自分自身で足を踏み出さなければならない。






少年は歩きだすことにした。

虚ろな偽りの世界を抜け、苦しいほどつらい現実を、共にいてくれる仲間たちと、進んでいるのかどうかわからなくても、一歩一歩着実に前へ。

勇者様、でもなんでもいい。呼び名はただの呼び名だ。

行くべき場所は、自分で見つける。これでけりがついたと感じることが出来たら、もう一度あの村へ還ろう。

みんなの墓も、まだ作ってやってないもんな。

母さんはきっと、父さんと一緒の墓に入りたいはずだ。文句ばかり言ってても、本当は仲が良かったのをちゃんと知ってる。

シンシアの羽根帽子も、今は俺が預かっているけど、あいつに返さなきゃ。

母さんの手作りで、すごく気に入っていた。


湖に舞い降りた白鳥みたいで、あいつには一度きりしか口に出して言えなかったけど、可愛かったんだ。





歩みを進める少年は、イムルの村で不思議な夢を見た。

紅い瞳をした、エルフの娘が祈っている。

シンシアによく似た、かぼそく儚げな精霊の娘。似ているのに、とても悲しそうだ。シンシアのあんな顔は見たことがない。

届いて。

エルフの娘は祈っていた。



お願い



届いて




わたしのこの想い





翼を失い、空からまっさかさまに落ちていく小鳥の声なき呻吟のような、その想いが自分の心になにかの大きな穴を穿つのを、天空の勇者の少年ははっきりと感じた。

行かなければならない。

ただひとり残った自分に課せられた、勇者であるこの身が果たさなければならない、選ばれし者の役目という言葉の意味。

アネイルの街の東、深い森の奥に佇むという誰も知らない蒼き塔。


ここに行けば、わかるかもしれない。



「行こう」


勇者の少年は運命に導かれし仲間たちと共に、ロザリーヒルと呼ばれるその辺境の地へ向かった。
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