雪花
(お前、ロザリーをいとしく思っているのだろう)
「な……、そんな……!
そんなことは、ま、まさか、滅相もございま……!!」
だが淀みなくあるべき否定の言葉は、なめらかに滑り出ず喉につかえた。
ピサロナイトの名を冠する緑金色の甲冑の騎士は、動揺を悟られぬよう慌てて下を向いた。
心臓が喉まで跳ね上がり、重厚な甲冑に包まれた身体に汗が湧く。王の最も忠実な臣、実体の影たる騎士として、なにがあろうとも絶対に肯定してはならない言葉だ。
影の騎士が目に見えてうろたえたのを見、ピサロはふっとほほえんだ。
ほほえみはやがて笑いに代わり、孤高の魔族の王はここ何十日かぶりに白い顔を愉快そうに崩すと、低い声を立てて笑った。
「嘘のつけない奴だ。やはりお前は、魔族失格だな」
「と、とんでもな……!わたしは、決してそのような不埒な……!」
「もしも、お前にロザリーを頼みたいと言ったらどうする」
影の騎士は驚きに言葉を失った。
「ピサロ様……?」
「わたしは魔族の王として、今以上の力を手に入れるべく動く。そのために最早(もは)、己れを捨てることも厭わぬと決めた」
淡々と告げるピサロのほほえみには、言葉の放つ衝撃にそぐわぬ奇妙な静けさが漂っていた。
「影の騎士。わたしはお前にだけは、まことの心の真実を返すと言ったな」
「は……、はい」
「今のわたしは、弱いのだ。
わたしはわたしであるがゆえに、このままでは何者も守ることすら出来ぬだろう」
ピサロは言った。
「心の真実を見定める眼を持つ、我がうつし身の騎士よ。
お前はわたしに、あなたは善でも悪でもない、そこにあるただひとつの命だと言った。
たしかにこれまでのわたしは魔族の真の支配者とは到底呼べぬ、脆弱な魂を抱えた傀儡(かいらい)の王だった。
わたしは魔族の王でありながら、心の奥底で暴虐を厭い、殺戮をためらっていた。
無垢な精霊を籠の中の鳥といとしむことで、邪悪を是として生きねばならぬさだめから逃げ、刹那の安らぎを見いだそうとした。
だがその結果、地獄の帝王の助けなくしては己れの宿願すら果たせぬほど、情にむしばまれたわたしの力は堕落した。
天空の勇者然り、山奥の集落の人間ども然り、予言に怯えたわたしの弱さゆえに無用な殺戮を増やす顛末(てんまつ)となったのだ。
そして今もなお、王の右腕とのさばる重臣どもには腹の底に叛心を抱えられ、きゃつらの恫喝によって純然たる施政すら操られる。
お前の言った通り、わたしは今のままでは善にも悪にもなれぬ、無能な偽りの王だ」
「ピサロ様……。そ、それは」
影の騎士は焦り、なにか言おうとしたが、とっさに言葉が出て来ず舌をもつれさせた。
「そうではありません。そうではなく、わ……、わたしは、貴方様に」
「わたしは力を手に入れる」
ピサロは言った。
「わたしは王だ。善でも悪でもない中途半端な存在に、そも魔族の王たる資格などない。
この答えに辿り着くために、愚かにも化生のごとく無益に命をあやめ、途方もない回り道を繰り返した。
わたしは究極の力を手に入れる。そのためには、今の弱き己れを完全に捨て去らねばならない」
「ロザリー様をお愛しになるのが、弱さだとでも?それは違います!」
影の騎士は必死に食い下がった。
ピサロの紫色の瞳が、虚無の闇に覆われていく。今止めなければ彼のたましいは、何が正しいのかすらわかりもしない自分になど、決して届かない所へ行き去ってしまうだろう。
「わたしはいずれ、わたしではなくなる」
ピサロは清澄に穏やかな声音で言った。
「いにしえより地底に眠りし地獄の帝王は、古代秘術により遺伝子操作されて生み出された、身の毛もよだつ異形だと聞き及ぶ。
究極の力を手に入れる代償として、いつかわたしもこの姿を失い、醜悪な怪物と化すのだろう。
人間が何度もそう呼んだ、化け物の外道に」
「ピサロ様!お止め下さい!」
影の騎士は隣室のロザリーに気を払うことも忘れて叫んだ。
「申し上げたではありませんか。貴方様は死を喰らって生きる魔物でも、邪悪に身を浸すあやかしでもない、と。
邪悪な魔族の王ではなく、この世界に生を受けたただひとつの存在として、ロザリー様をまっすぐにお愛しになられたら、と……!」
「わたしは、魔族の王デスピサロだ。それ以外の生き方はない」
ピサロはまたほほえんだ。
「それに、……わたしは魔物だ。愛するとはどういうことなのか解らない。
己れの気儘でひとたび籠に閉じ込めてしまった鳥を、空に放つことはもう出来ない。そうするにはわたしには余りにも敵が多すぎる。
影の騎士よ、忠実なお前にロザリーと結ばれよとは言わぬ。だが、わたしの代わりに終生あの娘のそばにいてやることは出来ないか。
あの娘は、わたしに命を救われたと言った。わたしを命の恩人だと言ってくれた。
だがもしかすると、出会ったあの瞬間、あの娘はわたしという狩人に囚われてしまったのかもしれぬ。
わたしと出会ってしまったために、命より大切な自由の翼をもがれて、もう二度と飛び立つことの出来ない籠の中へ」