雪花
血の薔薇が宙に咲き誇る。
ピサロの前で、天空の勇者の少年の体がくの字に崩れ落ちる。
倒れて行く瞬間、少年は最後に顔を上げ、緑の瞳で瘧(おこり)にかかったように震えるピサロの紫色の瞳を、ひたととらえた。
そして、ほほえんだ。
「デスピサロ様、勇者めを討ち取りました!」
エビルプリーストが動かなくなった勇者の少年の体に飛び乗り、更に牙を突き立てようとした。
「ハ、ハ、ハハ!天空の勇者などと偉そうに名乗るものの、その死のなんとたやすいものよ。こやつを守ろうとした村人どもの方が、まだ歯ごたえがありおったわ。
どれ、むくろを持ち帰ろうではないか。竜の神への見せしめに、デスパレスにてさらし首に処してやる」
「止めろ!!」
ピサロは叫んだ。
指先までわなわなと震え、血まみれの剣は掌から離れて地に突き刺さり、もはや自分がまっすぐ立っているのかどうかすら解らなかった。
ただ、すさまじい恐怖だけがあった。
魔族の王として生きる己れの尊厳を全て、真っ向から叩き壊されたような恐怖。
かわいそうな ひと
あなたは かわいそうなひと
(違う!!)
ピサロは声にならない叫びを噛み殺し、両手を振り上げた。
轟音が唸り、目もくらむ閃光が辺りを包む。
周囲の木々も家も、人々も、己れの率いた魔物すら弾け飛ぶ。爆風でエビルプリーストが吹き飛ばされ、悲鳴を上げて車輪のように地面に転がった。
ピサロは手を下ろし、よろめきながら歩んだ。
歩くたび、既に絶命した勇者の剣の師範に斬られた右肩から鮮血があふれる。歯の根がかちかちと鳴り、抑えきれない恐怖でみぞおちがねじり上げられた。
胸に深紅の花を咲かせ、大地に横たわる勇者の少年の傍らに立つと、まだ温かい体を見下ろす。
「……天空の、勇者。
死んだか。無様なものだ」
ピサロは激しく息を乱しながら言った。
「貴様はわたしを愚弄した。
このわたしと、剣を交えることすらせずに命を終えることを選んだ。
地獄の帝王を倒す力を持つ貴様にとって、わたしは剣を合わせる価値すら持たぬ、畜生以下の外道であったのか」
だが、もう動かない勇者の少年は瞳を閉じたまま、なにも答えない。
「貴様は死を選んだ。生きることを放棄し、さだめに喰われた負け犬になり下がったのだ。
ならば、見ているがいい。わたしは貴様とは違う。選ばれし者のさだめの業に、己れの命を蝕まれたりなどせぬ。
生きて、力を手に入れる。
この世の全ての存在を超越する、地獄の帝王すら下僕と従える究極の力を。
天空の勇者よ。もしも貴様が竜の神に守られしまことの光の化身ならば、その命は転生し、いずれまた違う生を以って相まみえることもあろう。
その時こそ、わたしはこの世界に君臨する唯一無二の魔族の王として、貴様をこの手で倒す」
ピサロは動かない勇者の少年の体に手をかざした。
「たったいま死して器を去った魂よ、浄化して天へ還れ。
貴様が血に飢えた愚かな餓鬼どもに輪廻転生を妨げられぬよう、わたしがその霊魂を冥府へ送り届けてやる」
「デスピサロ様、なにを……!?」
エビルプリーストが慌てて起き上がり、四つん這いの格好で驚きの声を上げた。
「お止め下さい!デスピサロ様!」
ピサロの掌が輝き、天空の勇者の少年の体が消えて行く。
瞳を閉じ、頬にかすかなほほえみを残した少年の体が、大地に吸い込まれるように消えて行く。
「な、なんということを」
エビルプリーストは呆然と呟いた。
「魔族の大禁忌とされている、魂の浄化を行われましたな。
あれでは、死んだ天空の勇者めは地獄で亡者となって彷徨うどころか、器から抜け出した魂が清められ、いずれ神の加護を得て蘇る恐れとてありますぞ」
「蘇りたければ、蘇ればよい。もはや地獄の帝王を倒すなどという予言にさほどの意味はない。
このわたしが、それ以上の存在と成る」
「な……、で、では……」
「先だって、西南の大陸で人間が地獄の帝王の生体組成に酷似した、古代錬金術を発見したと魔族軍辺境部隊より報告を受けたな。
城へ帰還した後、詳しく調べろ」
エビルプリーストの喉がごくりと鳴った。
「ま、まさか、デスピサロ様……?」
「このわたしが、地獄の帝王を越える存在となる」
ピサロは表情のない顔で繰り返した。
「わたしが力を手に入れる。
この世の誰も、もはやわたしに命ずることは出来ぬ。逆らうことも出来ぬ。
何者にも揺るがせぬ、何物をも手放さぬ、大いなる力を」
「……はっ」
エビルプリーストは頭を地にすりつけて平伏し、素早く立ち上がって叫んだ。
「では、只今これよりすぐに帰城致しましょう。
聞け!皆の者!天空の勇者めを殺すという我れらの目的は、これにて果たされた!
引きあげじゃあ!」
(天空の、勇者)
野に咲き誇る無垢な花が、摘み取られるのに抗わず散るように、ただ静かに命を落として行った少年。
あれは本当に天空の勇者だったのだろうか。
心臓の鼓動を止め、土に還った体から放たれた彼の魂は浄化され、天上へ届いていつかふたたびこの世界へ戻って来るのだろうか。
なぜ、浄化の手助けをしたのか。自分でも解らなかった。
己れをあわれんだ、あの恐ろしい言葉をもう二度と口に出させぬよう、再び出会って今度こそこの手で斃したかったからか。
それとも、少年が最後まで絶やさなかったそのほほえみの意味を、彼自身の口からはっきりと知りたかったからか。
ピサロは血に濡れた巨剣を腰の鞘に収め、漆黒のマントを翻した。
毒が血管を食い破る、鋭い傷みが身体を駆け抜ける。
王衣に包まれた全身を、落としがたい強烈な血の匂いが覆っている。
ロザリーに会いたい。
焦燥にも似た狂おしさでそう思い、ピサロは血の匂いと瘴気と完全な静寂に包まれた、山奥の村に背を向けた。
だが、そこに命がある限り、永遠に続く静止などない。
やがて死の静寂は破られる。
隅々まで燃え尽き、木炭のように黒く変色して折り重なった瓦礫が、がた、がた、と揺れる。
砂煙を巻き上げて砕け、左右に割れ落ちた石壁の下から、階段があらわれた。
あれほど村を舐め尽くし、飲み込み尽くした炎の狂撃を、まったく受けなかった頑丈な暗い地下倉庫。
黒煙のくすぶる瓦礫を押しのけ、そこからひとりの少年が出て来たことに、既に村を去ったピサロはまったく気付かなかった。