雪花
闇のあるじたる魔族の王ピサロと、光の化身たる天空の勇者の少年の瞳が、絡み合う。
少年の透き通る緑色の目が、焦点を逸らさずまっすぐにこちらを凝視する。
それは、これまで見たこともないほどうつくしい少年だった。
これが神の描きし光が人の形を取って具現した姿だというなら、なるほど光とはかくもうつくしいものなのだ、と心から思い知らされるかのような。
なぜだろう。みぞおちが熱く痺れ、手足から力という力が吸い取られていく。
ピサロは再び、さきほどと同じように体の自由が効かなくなるのを感じていた。
対峙する少年の、決して大きくはないしなやかな体躯から、目に見えないなにかが放出されている。
これこそエビルプリーストが、思い出すだけで胸が悪くなるとおぞけを催した、魔族の厭う勇者の清冽な光の気なのか。
だが身体の呪縛は感じるけれども、不思議と痛みや嫌悪はまったく感じない。
むしろ、包み込まれるようだ。
どこか安らかな慨視感さえある、柔らかな羽根のような、朝露をまとう花びらのような、無垢できよらかな妙なる気。
(あの想念の球体で感じ取った勇者の気配と、少し違う)
そのとき、立ち尽くす天空の勇者の少年の緑色の瞳から、ひとすじの涙がつうとすべり落ちた。
ピサロははっとした。
一瞬、なぜかそれがロザリーの流すルビーの涙に見えたような気がしたのだ。
「……貴様、なぜ泣く」
わけもない焦りに襲われ、ピサロは立ち上がって腰の鞘から巨剣を引き抜いた。
「天空の勇者よ。なぜ、おめおめとわたしの前に現れた。
この剣士の男は貴様を命懸けで逃がそうと試みていたものを、それもこれですべて水泡に帰した。
我れらの奇襲の目的は、勇者である貴様の命だ。ゆえに、この擾乱は貴様の存在こそが全ての原因。
腕に覚えのある剣士として、この期に及んで女のように泣くはあまりに無様だろう。
抜け。戦え」
だが勇者の少年は動こうともせず、なにも言わずにピサロを見つめながら、ただ静かに涙を流している。
表情の変わらない、外界の風に一度も触れたことのないなめらかな頬を、ひとすじ、またひとすじと涙がつたい落ちる。
「泣くな!」
ピサロの心に、次第に理由のつかない恐怖がこみ上げ始めた。
「卑しくも天空の勇者の名を冠しながら、なんという腰抜けだ。それでは貴様を守り死んだ人間どもの魂も、冥府にて決して浮かばれまい。
貴様は選ばれし者ではないのか。誰にも代われぬさだめを、たったひとりで負わねばならぬ者ではないのか。
泣くなど、愚かな腑抜けのすることだ。戦え!」
「……」
勇者の少年は手の甲で頬の涙を拭い、顔を上げてピサロを見つめた。
そして、花がこぼれ落ちるように静かにほほえんだ。
ピサロの背中に激しい戦慄が走った。
あまりの恐怖感に、思わず足がもつれて剣を取り落としそうになり、後ろへ後ずさった。
(なぜ笑う)
(なぜ、笑うのだ)
「……何がおかしい。貴様は、これからわたしに殺されるのだぞ。
死の恐怖で、精神が狂ったか。安心しろ。高位の致死呪文は、受けし者を瞬時に死に至らしめる。苦しむことなどない」
勇者の少年は、なにを言われているのかよく解らないような、不思議に澄んだ表情を浮かべてピサロをじっと見ている。
手足を垂らし、幼い子供のように無防備に立っているありさまは、およそ練達な剣技を習得した剣士とも思えない。
「止めろおおお!化け物!坊主に手を出すな!」
その時、ピサロの横から突然木槍を持った男が飛び掛かって来た。
瞬間、ピサロは巨剣を一閃し、目にもとまらぬ速度で男の胴をなぎ払った。
男の体がふたつに離れ、大地へ音を立てて転がる。
勇者の少年は目を見開き、言葉もなくそれを凝視した。
「……見たか。我れら魔族に逆らおうとする者は、すべてこうなる。
次は、貴様の番だ」
ピサロの握った巨剣の刃先から、ぼたぼたと紅い血がしたたり落ちる。
「剣を抜け。わたしと戦え。天空の勇者!」
すると、少年の緑の瞳にたたえられていた涙が消えた。
揺るぎない彩光をあやどる翡翠色の瞳孔に、初めてそれまで見られなかった感情らしき色が滲んだ。
……怒り?
ではない。
……悲しみ?
天空の勇者の少年はピサロを見つめ、呟いた。
(……)
か
ピサロは瞳をみはった。
剣が手から滑り落ち、地に突き刺さった。
肺がちぎれたように呼吸が苦しくなり、体が抑えようもなく震えだした。
かわいそうな ひと
かわいそう
あなたは かわいそうなひと
「見つけたぞ!天空の勇者!」
その時、地に膝を折ったピサロの耳を、勝ち誇った魔物の咆哮が突如天を突いた。
天空の勇者の少年の背後に、血を啜る喜びに狂ったエビルプリーストの剥きだした牙が襲いかかった。
少年の体が前のめりに折れる。
翡翠色の衣が裂かれ、薔薇の花のような鮮やかな血が宙に散った。