雪花
ピサロは嗚咽し、その場にうずくまってこめかみを押さえた。
いつも、眠る前に襲って来るはずの頭痛の混沌。今頃やって来たのだ。
胃の腑が縮みあがるような悪寒が、全身を刺すように包む。額から足元まで血が一気に落ちて行き、視界が赤黄色に激しく明滅した。
脳裏に精霊の娘の、あどけなく無垢なほほえみの幻影が浮かんでは消える。
(ロザリー……?)
違う、これは……。
あの天空の勇者の少年と、共にいたエルフの娘か。
香り高い花のような、少女のほほえみが視界で点滅するたび、なぜか緊縛されたように手足の自由が効かなくなる。
なにかの強い力が自分の体の動きを止め、これ以上進ませないようにしている。
(ピサロ様)
そのままじっとしていると、脳裏で点滅する娘のほほえみは、次第に限りなくいとおしい別のエルフの娘へと変わった。
(ピサロ様)
(ロザリー)
(ピサロ様、雪花を知っていますか)
(つめたいのに清らかで、触れるとすぐに消えてしまうけれど、でもとてもうつくしいのです)
ロザリー。
ロザリー。
わたしが、初めてこの世界で名前というものを与えた精霊の娘。
お前はわたしの前では絶えず幸せそうにほほえみ、口にするのはいつも花の話ばかり。
だが決して、まことの心は幸福ではないのを知っている。
わたしは誰にも知られないようにお前を籠の中に閉じ込め、魔族の王として果たすべき宿業も打ち明けず、ふらりと逢瀬を交わしては、人形のようにただ愛玩した。
そうしないと、失ってしまうからだ。
わたしにはまだ、お前を守り抜く力がない。
今もきっと、お前は何も知らずにわたしを待っているのだろう。
わたしがこの手を血に染めていることも知らず、雪降る蒼き塔の中で、懸命にほほえみながら。
(ピサロ様。
ピサロさま。
ピ サ ロ サ マ。
……デス、ピサロ様)
不意にどろりと声音の端々が溶け落ちて、甘い苺の実のような少女のほほえみが、暗く濁った妖者の囁きへと転ずる。
(デスピサロ様。
偉大なる我れらが魔族の王)
(デスピサロ様、人間めを滅ぼしましょうぞ)
(そのためには、予言のつかわせし天空の勇者は邪魔者)
(そうだ)
(わたしは、この村を滅ぼさなければならない。天空の勇者を殺さなければならない)
(予言を覆すため、なにも知らぬ者たちを騙し討ちのように無惨に殺すのだ)
(まだ起こってもいない未来のために)
(なぜ、わたしは殺さなければならない)
(地獄の帝王を復活させるため)
(なぜ地獄の帝王を復活させなければならない)
(人間を滅ぼすにあたって、その力を借りるため)
(わたしにもっと力があれば、地獄の帝王の助けなどはなから必要ありはしないのに)
(わたしに、力がありさえすれば)
(愚かなエビルプリーストの恫喝など歯牙にもかけぬ、なにものも寄せ付けぬ王としての圧倒的な力が)
(力が欲しい)
(力が欲しい)
(全てが己れの自由になる力)
(下らぬ殺戮などいちいち犯す必要もない、その場にいるだけで全てを恐怖にひれ伏させる力)
(ロザリーを何者からも守り抜くことが出来る、この世の頂点に立つ、究極の力)
目の前に、先ほど自分があやめた村人のむくろが冷たく転がっている。
「う、あ、あ……!!」
デスピサロは身をよじって低い声でおめき、両手で頭を押さえた。
あ あ
ち か ら が
力が
(力 が 欲 し い ! !)
その瞬間、手足を緊縛していた視えないなにかが、ぱりんと粉々に弾けた。
デスピサロは荒々しい息を吐き、うつくしい顔を鬼気迫る凄愴さに歪めて立ち上がった。
「天空の勇者を探せ!」
雷鳴のようにデスピサロは咆哮した。
「血に飢えたけだもののごとき愚か者ども、貴様らは無様な化生(けしょう)か。有象無象にいつまでもかまけるな!
我らの目的を忘れたか!天空の勇者を、探し出して殺せ!」
「やれやれ。突如苦しんだり叫んだり、騒々しい若者だ。
といっても見た目は若者とは言え、魔族であるがゆえ実際は我々人間よりずいぶんと年齢を重ねているのだろうな。
貴様がこの狼藉の首謀者か、男」
その時、背後で声を聞き、ピサロは息を荒げながら振り返った。
勇者ではない。
青黒色の青銅の甲冑に身を包み、研ぎ澄まされた剣を抜いたひとりの剣士が立っている。
男は身構え、不敵にほほえんで言った。
「我れは竜の神のさだめし天空の勇者なる御子に、光栄にも師範として剣を教授した者。
魔物よ、邪悪に生きることしか出来ぬ貴様らは畜生以下の外道だ。憎む価値すらない。
我れら勇者の守り人は、それゆえ黄泉でも貴様を恨むことはないぞ。
安心しろ、外道」