雪花
東の空を越え、雲を潜り、ここは遠く離れた蒼き塔ロザリーヒル。
朝から再び降り始めた雪は音もなく降りつもり、くすんだ瑠璃の光沢をまとう古き辺境の小塔に、純白の外套を被せている。
雪は大粒で、芯が深い。
このぶんでは、おそらくまた十日を数えるほども、止む気配はないだろう。
毛の生えた獣たちが土にもぐって眠り、草木は寒さの前におのれの無力を知り、太陽のもとへ伸びることを諦める冬。
景色は白く覆われ、自分以外の生きた存在を確かめるすべも持たず、なにかしていないと体からなだれ落ちるように時間の感覚が失われて行く。
これほど降り続けていれば、木々はその身をつめたい雪にくるみ込まれ、姿さえ杳として解らぬほど、辺りは雪一色で閉ざされてしまう。
これほど降り続けていれば。
これほど、全てが閉ざされてしまえば。
いとしいあのひとが、うつくしいな、と瞳を細めて愛でたあの雪花も、今はもう絶えて咲くことはない。
「騎士様、どうぞ」
窓の外の寒気が忍びこむのを封じるように、ぴたりと窓を閉め切った小部屋で、ロザリーは白い掌で可憐な桃色の花輪を持ち上げた。
「さあ、出来たわ。これはあなたのものよ、騎士様。
だって、わたしの繰り返しの我儘を聞いて下さったのはあなた。
あなたがルーラの呪文を使って、南の大陸の花咲く野山から、こんなにたくさんの花をあっというまに摘んで来て下さったのだもの」
「ロザリー様、わたしはひとときも貴女様の傍を離れてはならぬと、ピサロ様に厳命を申しつかっているのです」
騎士様、と呼ばれた全身を厚い緑金色の甲冑で包んだ男は、目の前の美しい精霊の娘の無邪気なほほえみに、弱り果てたようにくぐもった声をあげた。
「南の暖かい大陸へ移動魔法で赴き、花を摘んできて欲しいなどというご命令は、どうかこれきりにして下さいませぬと」
「だいじょうぶ、ピサロ様にはちゃんと内緒にしておくわ」
「そ、そういう意味ではなく……」
「さあ、こちらへどうぞ。大地の恵みの花の癒しを、貴方へ」
ロザリーはにっこり笑って、困惑しながら膝まづく緑金色の騎士の兜の頭頂に、ふわりと花の輪を乗せた。
内側でどのような表情を浮かべたのか、騎士の顔をすっぽりと覆う重々しい面頬が、ぎし、と音を立てて小さく震えた。
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「とてもよく似合うわ。素敵よ、騎士様」
「……は」
「知っている?花には小さな妖精が住んでいるの。
花は、この世界で最も無垢ないのち。
手折られればただ静かにその身を捧げ、水を与えられれば咲き誇って感謝を告げ、触れる者の心の内側に沈む、音のないひとひらの愛に共鳴する。
こんなに花が似合うなんて、あなたの心にはきっと、たくさんの愛が詰まっているのでしょうね。騎士様」
「……」
緑金色の甲冑の騎士は答えずに、桃色の花冠の乗った頭を深々と下げた。
「わたしは、魔族です。貴女様のおっしゃる、愛という言葉の意味を理解することが出来ません。
ですがこのわたしの暗き生で、まさかこうして美しい花に触れることがあろうなどとは、露ほども夢想しておりませんでした。
花を……美しいなどと、思う日が来ようとは。
ロザリー様。貴女はそこにいるだけで、蝶を誘う花のように、闇にうごめく魂をまぶしい光へと誘い出す。
ピサロ様がどうしようもなく貴女様に惹かれるのは、宵闇が暁を迎えて必ず朝へと変わるように、心のまことは光を求めておられるお方ゆえ。
そして実体が抱える想いが強ければ強いほど、その影もまた、同じく」
「え……?今、なんて言ったの。騎士様」
「なんでもありません」
緑金色の甲冑の騎士は声音を改めた。
「ロザリー様。どうぞ騎士様とお呼びなさらず、わたしのことは貴女様の愛するピサロ様の影、ピサロナイトと。
わたしは実体にうずもれて生きる、偽りの存在。
あるじの影となって生き、自らの感情を持つことを決して許されぬ身。
それでもわたしは貴女様のためならば、この命尽きるまでどんなことでも致しましょう。
貴女の寂しさを、少しでも埋められるのであれば……」
「わたし、寂しくなんてないわ」
ロザリーは心外そうに頬を膨らませた。
「わたしには、ピサロ様がいらっしゃるもの。
今はお忙しいかもしれないけれど、きっとまた、すぐにこちらへ会いにいらして下さる」
「ですが貴女様のお顔には、寂しくてならないと書いてあります。
この人知れぬ小さな塔で、誰にも会わずにいつ来るとも解らぬピサロ様だけをただ待ち続けるのが、時々、ひどく苦しいと……」
緑金色の甲冑の騎士は、はっとして口をつぐんだ。
ロザリーの小さな顔からはほほえみが消えうせ、ふたつの深紅の瞳は、今にも涙がこぼれ落ちそうに潤んでいた。