雪花
そして、その数刻の後。
動き出した運命の針がとどまることなど決してないように、避けられない事変のときは、必ずやって来る。
神は本当は平和ではなく、争いを傍観するのが楽しみなのではないかと疑いたくなるほど、この世界のあちこちで今日もあふれかえる戦い。
恐らくこれも、そのうちのひとつでしかない。
たった今ここでこれから行われる惨劇が、海を隔てた遠い国ではまるきり他人事のように語られ、どうか、自分にはこんなことが起きませんようにと己れの無事だけを祈られ、やがて時が過ぎ全てなかったことのように、最後は忘れ去られていく。
人間は自分に直接利害のない物事は、じつに都合よく忘れることが出来る生き物だ。
己れの保身のみに必死になり、他人の痛みなど解ろうともしない愚者。
奪うことしか出来ぬ魔族は、愚かだ。
だが、奪い奪われる場面をただ指をくわえて見つめ、自分たちさえよければいいとしか考えられぬ人間も、心根の腐った愚か者だ。
人間も、魔族も。
己れのことしか考えられぬ者は、愚かだ。
いとしいロザリーを失いたくないがゆえに、同じように無垢に愛し合う者たちをたった今から予告なく殺そうとしている、
このわたしも。
魔方陣で魔力を増幅し、移動呪文を駆使してブランカ北部へ到着した魔族軍の前に、山奥の小さな集落が広がっていた。
魔物の群れは黒い土煙を巻き起こしながら縦横に隊列を組んで並び、差し出された殺戮と言う願ってもない頂戴物を前に、奇妙な静寂が立ち込めている。
整然と並んだ大軍の足元を、砂塵が吹き抜ける。
その陣頭に立っているのは、漆黒のマントをはためかせる魔族の若き王、デスピサロ。
傍らには参謀エビルプリーストが、まるで黒い染みのようにぺったりと付き従っている。
「聞け、我が忠実なる同胞(はらから)よ」
デスピサロは腰の鞘から巨剣を引き抜き、皆の前に高く掲げた。
「ここにありし山奥の集落に、我らの大義たる地獄の帝王の復活を阻止し、滅ぼす力を持つという天空の勇者が棲んでいる。
これより、魔王デスピサロの名を以って、この村の完全なる殲滅を命ずる。
天空の勇者の少年を殺せ。
この村に住まう生きとし生けるものを、全て殺せ。生きた者をひとりとして残すな」
「女、子供はいかが致しましょう。デスピサロ様」
前方に立っていた魔族の兵が尋ねた。
「捕えて連れ帰り、デスパレスで奴隷として使う。また、死体を持ち帰って食料とするという手も」
「わたしは奴隷狩りや食料調達のためにここに来ているのではない」
デスピサロは氷のような目で兵を見据えた。
「貴様ら木っ端雑兵どもの最も無能な所は、ひとたび命ぜられた言葉をどうにもすんなりと飲み込めぬことだ。
このわたしに、同じことを二度言わせるな」
「はっ」
魔族の兵が慌てて平伏すると、傍らでエビルプリーストが囁いた。
「デスピサロ様、お叱りはその程度に。
出陣前にあまり強く叱責なさると、せっかくの魔物どもの士気が下がってしまいます」
「この程度で士気の下がる兵卒など、はなから要らぬ」
デスピサロは冷たく言い捨てた。
「貴様こそ、勇者を殺せ殺せとあれほどわたしを急かしておきながら、死にかけの泥虫のような顔色をしているぞ。
天空の勇者の放つ光の気に、もうやられたか。それでよく「魔を癒せし神官」、エビルプリーストを名乗っていられるものだ」
「デスピサロ様はひさかたぶりの戦を前に、ずいぶんお心が高揚していらっしゃるようで。
さきほどデスパレスでは、あれほど青ざめ震えて、子供のように逡巡していらっしゃったのに」
皮肉たっぷりにエビルプリーストは言ったが、愛剣を抜き、大軍の陣頭に立ったデスピサロには、もう迷いも動揺する様子も見られなかった。
底知れない瞬きを秘めた紫の双眸は暁の炎のようにくるめいて、幾万の魔族の頂点に立つ誇り高い支配者だけが持つ、凜烈な眼光を宿していた。
「わたしは王だ。
王はひとたび決めたことを二度と覆しはせぬ。
天空の勇者を殺す。貴様はエルフの娘を、餓鬼のように卑しく貪り喰らえばよい」
「おお、お許し頂けますか」
「その代わり」
デスピサロはエビルプリーストをぎらりと鋭く睨んだ。
「二度と、その汚れた手でわたしに触れるな。
わたしに関わりある者、場所に金輪際近づくな。
もしも過ちを犯せば、たとえ魔族全軍を敵に回そうとも、わたしはこの手で貴様の首を切る」
「物騒なことを」
エビルプリーストは顔をしかめた。
「うつくしいお見かけとは裏腹に、げに恐ろしきお心をお持ちです。魔族全軍を敵に回すということは、王の地位を追われるのと同じことですぞ。
デスピサロ様には、それほどまでに大切なものがおありだというのですか」
「それを貴様に答える必要はない」
デスピサロは言った。
「だが、大切ではないものは魔族全てと共通している。
その中に天空の勇者も、そして人間も含まれているということだ。
これまで長きに渡って神の意志を忠実に守り、我欲を捨てて勇者を守り育てた村人たちの功績は、賞賛に値するべきだろう。
彼らに敬意を表し、奴隷や食料として無闇に恥ずかしめることはせぬ。
一瞬の苦しみのうちに、勇者と共に黄泉の世界へ送ってやる。それが誇りある死者への餞だ」
「死者に、誇りなどあるものか」
エビルプリーストは憮然として言った。
「死ねば皆ただのむくろ、地べたに転がる塵芥と同じです」
「そうとしか考えられぬのは、貴様が誇りある生を送っておらぬからだ」
デスピサロは巨剣を静かに握り直し、もう一度頭上に高々と掲げた。
脳裏に一瞬、勇者の少年に寄り添ったエルフの娘のあどけないほほえみと、その瞳がこれからたえまなく流すであろう、ルビーの涙のきらめきが浮かんだ。
だが、もう迷いはない。
迷ってはいけない。
王はひとたび決めたことを二度と覆してはならない。
太陽の光が白刃に煌めくのを認めると、胸に残った最後のなにかを振り切るように、デスピサロは雷鳴の轟きの如く叫んだ。
「全軍、攻め込め!」