凸凹魔法陣
空にぽっかりと黄色い穴をうがったような、巨大な満月が浮かぶ晩には、伝説のお化け鼠が、山から降りて来るのを知っているだろうか?
奴は毛むくじゃらの頭をもたげ、赤い牙を尖らせて、逃げ惑う人々を凶悪な手でまるで虫けらのように次々と捕らえると、
ばりばりと頭から骨ごと、小魚のように噛み砕いてしまうのだという。
何人かの行方不明者と共に、そんな噂がまことしやかに流れるようになってから数ヶ月。
満月の夜に好んで外出しようとする者は、このサントハイムの城下街に一人もいなくなった。
誰だって自分の命は惜しい、それは当たり前のことだ。
おかげで満月の夜の街は、沈黙の糸を張り巡らせたようなうろんげな静寂に常に包まれ、
その中で唯一、わたしだけは喜々として、教会の祭壇に膝まづいては目を閉じ、祈りの聖句を唱えていた。
一切の音が排除され、神と完全に対峙出来る時間。
天から降りて来る妙なる囁きが身を包み、自分が神の息吹と溶け合っていると感じる、至高のひととき。
だがそれは、いつも示し合わせたようにある瞬間、真っさらな水面にいきなり大きな石を叩き落としたように、小気味よいほど鮮やかに破られる。
「クリフトー!!いるんでしょ?!解ってるのよ!
おとなしく出てきなさい!!」
こうしてわたしは、この十年後に彼女の共をして、広大な世界に旅に出掛ける事になるまで、街中の鐘を一斉に打ち鳴らすような、溢れんばかりの生命力みなぎる声に、決まって毎日厳粛なる祈りを遮られ続けたのだった。
これはそんなふうにまだ幼かった日の、もうとうにあんな事件があったことすら忘れかけているわたしと彼女の、
ある小さな冒険の物語だ。
##IMGU116##
~凸凹魔方陣~
「ひ、姫様……、またですか」
クリフトは慌ててミトラと呼ばれる聖職者用の帽子を頭から外すと、まだ幼さの残る蒼い目をぱちぱちさせながら、思わず二、三歩後ずさった。
「一体どうやって、こちらまで来られたのですか?
満月の夜の城門は、厳戒体制のはずです」
目の前に立っている、鳶色の髪と瞳をした幼い少女は、クリフトの狼狽をまるで意に介さないように楽しげに首をすくめた。
「これよ、こ、れ」
声がした途端、何かが睫毛の先を素早く掠め、前髪が疾風に散らされてぱっと浮き上がる。
少女は振り上げた右足を踵から落とすと、呆然とするクリフトに向かって、にっこり笑いかけた。
「昨日は窓から脱出したけど、鉄板を貼られてしまったから、今日はこっちにしたの。
クリフト、あのお城は案外ぼろよ。王様が住んでるといっても、全然たいしたことなんてないわ。
蹴りを五回続けて入れたら、すぐに壁は破れたもの」
「け、蹴り……」
賎しくも聖サントハイム王国の唯一の王位継承権者である彼女、アリーナ王女が、なぜ夜ごとに城を抜け出しては教会へと忍んでやって来るのか、生真面目なクリフト少年にはさっぱり理解する事が出来なかった。
「と、とにかく、城までお送り致します。
このままここにいるのが見つかれば、ぼくまでお叱りを受けてしまいますし」
「ふん、『ボク』だって」
アリーナ姫はつかつかと歩いて来ると、鼻を鳴らしてせせら笑った。
「クリフト、あんたもう12才でしょ」
「は、はい」
「騎士ならあと2年もすれば叙勲を受ける歳よ。
いつまで甘ったれた赤ちゃんみたいな、幼稚な言葉を使ってるの。
わたしなんてまだ7歳だけど、自分一人で食事も着替えも出来るし、本当に手がかからない良い子ですわって、侍女のカーラにいつも褒められてるんだから」
「ぼ……わたしだって、着替えくらい一人で出来ますよ」
クリフトはむっとして言い返した。
「それに天窓によじ登ったまま、上手にステンドグラスの掃除だって出来るし、破れた法衣の直しだって、随分と早く仕上げる事が出来ます。
食事だって、ぼくは10歳の時から、日曜の教会の賄い食を全部作っているんですから。
あなたのような」
蝶よ花よと持て囃されて育てられた、深窓の姫君とは違うのだ。
勢い余って口にしそうになったのを、なんとか飲み込む事が出来たのは、目の前でいっぱしの大人よろしく腕を組んだ少女の瞳に、その瞬間、ほんのわずかな陰りが走ったのに気づいたからだった。
「そう……お前は食事が作れるのね」
アリーナ姫は神妙な様子で、小さな顎を撫でながら呟いた。
「だとしたら、頼みがあるわ。
今すぐには言えないけど、作って欲しい料理があるの」
「えっ」
クリフトは慌てた。
「ぼ、ぼくは別に、なんだって作れるというわけじゃ」
「任せたわよ。近いうちにお願いするからね」
ずいと近寄ると、クリフトを見上げながら、薔薇の蕾のように小さな拳で胸元を軽く押す。
薄茶色の大きな瞳が間近でまたたかれて、クリフトの心臓の鼓動は一気に跳ね上がった。
(ま、ま、まただ。
どうしてぼくはこの娘……いや、この王女さまと話していると、いつもこんなに胸がどきどきして来るんだろう)
(五つも年下のまだほんの子供なのに、神は幼い子へ邪念を抱く事を、硬く禁じているというのに)
(ぼ、ぼくはひょっとして、ヘンタイなのだろうか……)
「なに青い顔してるの?」
はっと我に返ると、目の前にいたはずのアリーナ姫は、いつの間にか祭壇に回り込み、教典の置かれた机の上に飛び乗って両足を投げ出し、ぶらぶらと左右に揺らしていた。
「アリーナ様!そんな所に座っちゃいけま……」
「手っ取り早く言うわ。今日ここに来たのはほかでもないの。
満月の夜に出来る冒険と言ったら、たったひとつしかないでしょ」
クリフトは顔から血の気が引くのを感じた。
「ま、まさか」
「そう」
アリーナ姫は期待に満ちた瞳をきらきらと輝かせて、人差し指を立てながらこくりと頷いた。
「行くわよ、お化け鼠退治」