雪花
だが、半ば恫喝に満ちたエビルプリーストの言葉にも、デスピサロはやはり返答しなかった。
若き魔族の王の紫色の瞳は、今や明瞭な混迷に見舞われており、呼吸は乱れ、いつも怜悧に引き結ばれている唇は苦しげに歪められていた。
赤黒いもやをまとう想念の球体の中心で、エルフの少女と勇者の少年が、瞳を交わしてほほえみ合っている。
勇者の少年の緑の瞳は、さっきとは別人のように解きほぐれ、生まれて一度も真の自由を与えてもらったことのない彼が、この少女の存在だけを心のよりどころにしているのがはっきりと解る。
そして、そのふたりの心を許しきった安らいだ様子が、なぜかピサロに激しい動揺を与えているらしかった。
(魔族でありながら情深き、暗愚な王めが。
さだめに縛られし天空の勇者と、己れの不随意な生を重ね合わせおったか)
エビルプリーストは喉の奥でにがにがしげに呟いた。
ああ、下らぬ、下らぬ、下らぬ!
全く、いつの時代もこうだ。
愚かな王をあるじに持つと、害を被るのは臣ばかり。
この男は愛などという下らぬ情に囚われることで、すでに己れが王たる資格を失っていることに全く気付いておらぬ。
ならば、致し方あるまいな。
どうあっても、貴様には天空の勇者を殺してもらわねばならぬのだ。
我が宿願のために。
我が宿願のために。
我が宿願のために、愚かなうつくしき王よ、もっともっと踊ってもらおうではないか。
「わかりました、王。
では山奥の村に攻め込むをとりあえずは一旦保留とし、貴方様のお心が定まるのを待つと致しましょう」
エビルプリーストは猫撫で声で言い、床に膝をつくと、心配げにピサロに寄り添った。
「おお、なんとお顔色の悪い。
ひどい汗です。おいたわしや」
節くれて爪の長いいびつな手を伸ばし、ピサロの銀色の髪をさらさらとかき分けて頬に触れる。
青ざめて肩で息をしていたピサロは一瞬抗おうとしたが、その気力すら湧かないらしく、されるがまま動かなかった。
「我が敬愛するデスピサロ王、一体どうしてそのように突然、怯えた幼子のように恐慌に陥ってしまわれたのです?
貴方様にはこのわたしがついておりますゆえ、どうぞご安んじて肩のお力をお抜き下さいませ。
………おや」
エビルプリーストの唇が、三日月のようににいっと横へ広がった。
「王。どうしてでしょう。
貴方様のお体からは、なぜかつめたい雪の匂いがしますなあ」
ピサロは何も答えなかった。
「このデスパレス周辺は南方の気候に覆われ、雪が降ることなどめったにない。
もしや、夕べはいずこか雪の深い場所へ、お出かけでしたかな」
ピサロは答えなかった。
「それに、花の香りもしますぞ。かぐわしく甘い、無垢で小さな白い花の香り。
いわく、天空の勇者を探索するさなか、とある地方で伝説の歌を耳にしたのです。
開け、あやかしの笛で扉を。東の大陸、四方を森で囲むひとりぼっちの塔。
蒼き深き孤独な塔を訪れるのは春の花と、冬の雪、行き先に迷う旅人だけ……、と。
貴方様のお体から漂う雪と花の甘い香り、まるでその伝説の塔を訪れた、道に迷いし寂しい旅人のようです」
「離せ」
ピサロは嫌悪の表情を浮かべ、エビルプリーストの手を払いのけた。
「わたしに触るな。下衆」
「これは、ご無礼を」
エビルプリーストはにやにや笑いながら、さっと手をひっこめた。
「王のお体からかぐわしき、じつに美味そうな香りがしたものですから。
そのようにお疲れのご様子、まずはゆるりとお休みになられ、滋養のたっぷりと着くお食事を取られてはいかがですか?
じつは今わたしが好み、毎日のように口にしている珍しい料理があるのです。
デスピサロ様も、ぜひお召し上がりになられるとよい。たんと精がつきますぞ」
ピサロはエビルプリーストを凝視した。
「……料理だと」
「ええ」
エビルプリーストの声色が一段上がり、ひどくゆっくりになった。
「デスピサロ様も、このわたしも、闇を生きるさだめを負った魔族。
我々はまぎれもない魔物。
魔物の飢えた血肉に、ことのほか深い滋養を与えてくれる料理とは、エルフを煮込んだ料理。
身の柔らかく甘い、若い娘のエルフを捕えて、体を引き裂いて食うのですよ」