雪花
もやもやと浮き上がる想念の球体に、横並びの破線が幾筋も走り、やがて徐々に鮮明な映像に変わる。
心臓の鼓動が、わずかに早まる。
どれほど無関心を装っても、やはり神に選ばれし天空の勇者という存在が一体どのようなものなのか、興味を惹かれるのを隠しようもなかった。
エビルプリーストが反芻する記憶の中の山奥の集落を、ピサロは声ひとつ立てず見つめた。
……森だ。
一面の緑。
濃淡著しい緑色の色彩がこんもりと四方に膨らみ、それ自体が大きなひとつの生命となって息づく、深い森。
人の手が全く入っていない密接した樹林の群れは、まるで一切の敵を拒む堅固な要塞のようにも見える。
恐らく、そうであるからこそ、人間たちはここを勇者の隠し場所として選んだのだろう。
かき分けても、かき分けても、なお続く樹木の海と草の壁。
樫の木、楡の木、カエデの木がそれぞれ等間隔で寄り添うように立ち並び、エニシダの棘だらけの枝々は腕を組み合わせるように、幾重にもかさなって続く。
四本足の獣ですら簡単には入り込めそうもない、こんな深閑とした森の奥に、まさか人間の住む村があったとは。
ひそかに驚くピサロの前で、エビルプリーストの想念が形どる球体は、山奥の隠れ村の様子を克明に映し始めた。
ある瞬間から突然、深い森がぱっと開ける。
周囲に密集した木々を天然の生垣代わりに、ほぼ四角形に囲まれた狭い平地が広がり、石造りの小さな家々が並ぶ。
集落だ。
点々と建てられた家は、目立たぬようにするためか、どれも特徴的に屋根が低く、まるで乾燥食物の貯蔵庫のようにこじんまりとしている。
村の中心には清流が流れ込み、上流には小さな泉が水面を青くきらめかせていた。水しぶきをなだれさせて回転する、木造の水車もある。
そこかしこに、村人がいる。
ある者は額に汗を浮かべ、畑仕事に精を出している。ある者は道端に大きな折り機を置き、色鮮やかな布を織っている。
川べりで、のんびりと釣り糸を垂らす者がいる。真っ白な洗濯物を、風にそよがせて干している者がいる。
みな穏やかに、ごく普通のどこにでもある人間の生活を、思い思いに営んでいる。
球体に映し出される映像を見る限り、村はごく小さく、住人も数十人にも満たぬ程度だったが、そこに暮らす村人たちの表情は一様に明るく、外界に背を向けて生きる陰鬱さや、山奥に隠れ住む後ろ暗さといったものは全く感じられなかった。
だが、もしも勇者を始末するならば、エビルプリーストがかつて言った通り、後の禍根を残さぬためにこの者たちもひとり残らず消さねばならないのだ。
(デスピサロ様、この者です)
その時、映像にエビルプリーストの憎々しげな声音が覆いかぶさった。
(この、花畑に佇んでいる者をご覧ください。
きゃつこそが、世界を救うさだめを負う、忌まわしき天空の勇者)
言葉を発することで意識が凝縮されたのか、にわかに映像を結んでいた想念の焦点が、村の中心部に位置する花畑に注がれる。
球体に映る光景が、ふいに赤や青、橙や紫の色とりどりの花々で覆われた。
ピサロは目を瞠った。
花の中に、少年がいる。
肩先まで垂れた不思議な色の髪と、透き通るエメラルドの目をした少年。
年の頃は、16、17だろうか。まだ成長過程らしいすんなりした手足は健やかに衣服から突き出されており、整った鼻梁は輝くばかりに美しい。
しなやかな両腕を頭の後ろで組んで、目を開いたまま、眠るともなく花畑の真ん中に寝そべっている。
風に揺れる花びらが頬を撫でるのも気にせず、ぼんやりと空を見つめる瞳は、意思的だが同時に、ひどく物憂げだった。
地獄の帝王を倒す勇者とは、さぞ筋骨逞しい猛者型なのだろうと思っていたが、逞しいどころか絵物語の主人公と言っても通りそうなほどの美貌で、すらりとした肢体は中性的ですらある。
(これが……、勇者。
地獄の帝王を復活させるわたしの前にいずれ立ちはだかる、天空の勇者)
「……まだ、年端もいかぬ少年だ」
(ですが、大いなる光の力を身の内に秘めています)
ピサロの呟きを聞き咎めたのか、エビルプリーストが言葉を継いだ。
(今はただの子供でも、もしもこの者が外界に飛びだし、余計な力をつけでもしようものなら話は厄介です。
己れのさだめを知らず、籠の中の鳥のように閉じ込められて暮らす今のうちに、さっさと殺しておかねば)
籠の中の鳥、という言葉に、一瞬ピサロはぴくりと柳眉を揺らしたが、すぐに元通りの表情に戻った。
「確かに、少年だがかなりの手練れではあるようだ。
左手の指の付け根に、柄の握り癖があるのが見える。右掌の擦り傷は、盾の把手の摩擦で出来たものだ。
恐らく、よほど剣の修練を積んでいるのだろう」
「そのような所にまでお気が付かれるとは。さすが、デスピサロ様は炯眼です」
「天空びとの血を継いでいると聞いたが、背中に翼は生えていないのだな」
「狭苦しい隠し集落を作るにあたって、愚かな竜の神が、邪魔だと根元からもいでしまったのではありませぬか。
よもや予言を行うべき勇者に、そんな面倒なさだめを押しつけられるのは御免だと、さっさと飛んで逃げて行かれてはたまりませぬからな」
(面倒なさだめ)
(生まれながらに選ばれし者の特別なさだめを、恐らくその者も持つのでしょう。
貴方様と同じく。ピサロ様)
(わたしと同じ?
天空の勇者が、このわたしと同じさだめを持つというのか)
(はい。
幾千億の命がうごめくこの星にあって、他の誰も代われぬ役目を、たったひとりで負わなければならぬという意味において)
たしかに、己れが地獄の帝王を滅ぼすべき勇者であると知れば、面倒な役回りなど放り出し、決めつけられた運命に抗いたいと思うこともあるのかもしれない。
ならばその役割をどうしても負わせたい外野の有象無象たちは、みなで口裏を合わせ、揃って彼に、自分が勇者であることを黙っているに違いないだろう。
つまり、この少年は己れの果たさなければならぬ運命も、予言のこともなにひとつ知らず、狭い村に押し込められて黙々と剣の修練を行わされているのだ。
そしてある日突然、「じつは、お前は勇者だ」と前触れもなく告げられ、それまで彼がこっそりと育てて来たかもしれない夢や、未来への希望は無惨に摘み取られ、勇者としてだけ生きていくことになる。
まるで、魔族の王になれ、と有無を言わせず命ぜられ、王としてさらなる強さを手に入れろ、人間を滅ぼせ、と、常に追い立てられ続ける自分のように。
「……哀れだな。この少年は、竜の神の都合のよい道具だ。
自らは坐して動くことなく、この世の理をチェス盤の駒のように興味深く見つめるだけの、怠惰な神の操り人形」
ピサロは酷薄な笑いを浮かべた。
天空の勇者の境遇が自分に似ている、と思った瞬間、何も知らずに花にうずもれている美しい少年に対して、驚くほど強い憎しみがこみ上げた。
「己れの望む生き方もままならず、勇者という役目を無理矢理負わされて苦しむよりは、いっそ希望と夢を胸に、いさぎよく果てた方が幸せだろう。
魔族全軍に号令をかけ、この村へ今すぐ向かわせろ。
天空の勇者もろともすべて、殺せ」