雪花
東の空を覆う朝の陽射しが、魔城デスパレスを赤紫に染める。
切れ切れに浮かぶ雲の真下を、目覚めたばかりの鳥たちの影が舞い、まるで間違ってしたたり落ちた染みのように、明けの空のあちこちに点々と青い印を穿っていた。
ロザリーのもとを去り、自城に帰還したピサロの耳を、鋭い咆哮が突く。
威嚇護衛のため、城門の両端に繋いでいる翼竜の叫び声だ。
巨大な城門の石壁にもたれかかり、うつらうつらと舟を漕いでいた半獣型の魔族の衛兵は、いななきに目を醒まし、ピサロを見て飛び上がった。
君主の前で居眠りをするという失態をなんとか取り繕おうと、あわてて膝まづいて臣下の礼を施す。
「王!ようこそお戻りなさいませ。
ご無事のお帰りを、心よりお待ち申しあげておりました!」
ピサロは漆黒のマントを腕で払い、冷ややかな目で衛兵を睥睨した。
「心より待っていたにしては、ずいぶんとくつろいでいたようだな。
それほど眠気が取れぬなら、いっそ目覚めを持たぬ永劫の眠りにでも着くか」
「い、いえ!その……」
「地獄の帝王の復活も近い。気を引き締めろ。
城内外に、異常は」
「はっ」
魔物の衛兵はさっと背筋を伸ばして最敬礼した。
「ご安心ください。全く問題ありません!」
ふぬけた阿呆面をさらしてぐうぐうと眠りこけていた、どの口が自信を持ってそうと言い切れるのか。
あるじの顔色を窺うようにおどおどと身を縮めている衛兵を、それ以上責めることはしなかったが、ピサロの胸に薄雲のような苛立ちが立ち込めた。
厳然とそびえたつ威容とは裏腹に、デスパレスの警備体制は嗤笑(ししょう)が洩れるほどお粗末だ。
守備の要たる城門を守る衛兵の職業意識もこの程度、腹をすかせて唾液を垂らすばかりの魔竜には知性のかけらもなく、いまだに王たる自分にまで、いちいち唸り声を上げて牙を剥く。
城館を出入りする者の身元をただすこともろくにせず、風体が魔族の特徴である紫の目や獣型の四肢を備えていれば、誰であろうと入城を許可する。
もしも、古代よりつたわる伝説の「変化の杖」が実際に存在し、不埒な輩が魔族に姿を変えでもしようものなら、じつに簡単に侵入を許してしまうことだろう。
だがそれを口にすれば、そういう王こそ当主でありながら、寸暇を見つけてはいずこともなく姿を消し、自身の住まいを疎かにしているではないか、と家臣たちの汲々たる不満が返って来るはずだ。
そう。
すべては自分のせいなのだ。
宮殿統治のずさんぶりを嘆くことは、すなわち、己れの王としての力不足の証明でもある。
なすべきことは山のようにあり、なさざるべきことも明確に解っているのに、どっちつかずな川の流れに無責任にたゆたう水草のように、この身はいつまでも、のらりくらりと答えに背を向ける。
ピサロは火蜥蜴と双頭の竜の紋章が彫られた回廊を横切り、自室の扉を開けた。
暖炉にはあかあかと火が焚かれ、部屋の中は暖かい。
漆黒のマントを外して寝台に投げ、衝立の前に置かれた肘掛椅子に、無造作に背中を投げ出す。
瑠璃のテーブルの上には、湯気を立てる茶器と食事が用意されていた。だが給仕を務めるべき侍従も小姓も、誰ひとりとして控えていない。
ピサロが傍仕えをつけるのを好まず、自室ではいつも完全な人払いを命ずるからだった。
この城では、ひとりでいる時が一番安らげる。
ここには花の化身のように愛らしいロザリーもおらず、唯一心を打ち割って話すことの出来る、忠実な緑金色の甲冑の騎士もいない。
大切だと思う者は、誰もいない。
それどころか、手を揉み合せながら近寄って来るのは、
「デスピサロ様、お戻りですか。
おくつろぎのところ、失礼致しますぞ」
返答せぬうちに扉が開かれ、床に敷かれた緋色の毛氈(もうせん)の上に、仰々しい深緑色のマントがずるりと滑り込んだ。
臙脂(えんじ)色の縦長の聖帽を被り、袖広の白衣をまとい、胸にこれ見よがしな宝玉を嵌めた姿。
まるで人間の聖職者を真似たような出で立ちだが、どれほど清廉を装っても、内に秘めた性根の卑しさは否応なく滲み出る。
ピサロは長い足を組み、目の前にぬっと現れた参謀のいびつで邪悪な姿を黙って見つめた。
エビルプリースト。
帰って来たとたん、こうしてすかさず現れる所を見ると、やはり目障りな王に専用の監視をつけているのだろう。
くぼんだ目は血に飢えているかのようにらんらんと輝き、眼前のあるじの命を一滴残さず貪らんと、今にも舌なめずりしそうだ。
(ピサロ様、あなたは死を喰らって生きる魔物ではありません)
(ロザリー様は、あれほどお辛い目に遭っていながらなお、皆が共に手を取りあって生きる世界が訪れることを望んでおられます。
人間も、エルフも、魔族も、分け隔てなく共に生きることの出来る未来を、心から)
主君に忠誠を誓いながら、清き精霊に心を奪われてしまった緑金色の甲冑の男の言葉が、脳裏によみがえる。
(……そうは望まぬ者も、ここにはいるようだぞ。影の騎士よ)
「何か用か。出先から戻ったばかりで疲れている。
火急の用件でなければ、少しは気を利かせてほしいものだが」
ピサロは取るに足らぬ相手だとわざと知らせるように、うるさげに眉をひそめてエビルプリーストから視線を離した。
エビルプリーストの顔が、屈辱でさっと赤く染まった。