あの日出会ったあの勇者




思い出は時と共に刻々と変化してゆく。

時間は過去を甘く味つけてくれる、魔法の蜂蜜だ。楽しかった日々はより楽しく、綺麗だったものはより綺麗に。

暇な時や感傷にひたりたい時だけ都合よく口に入れても問題なし、その甘美さはむしろ熟成を増すばかり。

不思議なことに、つらかった思い出が時間が経ってよりつらくなることはない。でもそれは俺が子供だから、本当のつらさってやつをまだ知らないからなのかもしれない。

哀しかったよな、つらかったよなという思い出は、時間と共に記憶の向こうへ遠のいてゆく。眠りにつくたび輪郭が薄くなり、思い出す回数もだんだん減っていく。

あの日のことは今でも鮮明に覚えている。

もう二度と繰り返せない、一日限りの短くて小さな冒険。何度だって思い出したい。俺の人生の行き先を変えてくれた日。

大袈裟なんかじゃない。いつだって運命を転換するきっかけは、毎日のささいな出来事の中に床下に転がったビー玉みたいに上手に隠れている。

それを、俺は見つけたんだ。あいつのぶっきらぼうな物言いの中に。

あのそっけない笑顔の中に。






「なあ、そのナイフ俺にくれないか」

城下の五番街に辿り着いた頃、あたりはもう青紫色の夕闇に包まれていた。

手を繋ぐのを頑なに拒まれたので、たぶん無理だろうと思いながら口にしてみたら、それには彼はあっさりと頷いた。

「ああ。やるよ」

三日月形の鞘におさまったククリナイフをひょいと投げて寄こされ、ライはあわてて受け止めながら言った。

「いいのか?これ、大事なものなんじゃないのか」

「大事は大事だが」

緑の目の若者は肩をすくめた。

「家に何本か換えがあるから、一本くらいならべつにいい。それにお前、木彫りをやってみたいって言ったろ。

やるなら早いうちに自分にあった手を見つけたほうがいい」

「手?」

「道具のことだ。言っておくが、ククリのような湾刀で木を彫るのは並大抵じゃ出来ねえぞ。多分お前には無理だ。その時は返せ」

「ふ、ふざけんなよ。あんたは子供の頃からそれを使ってるんだろ。だったら俺にも出来るかもしれないじゃないか!」

「お前と俺を一緒にするな。俺の腕は特別なんだ」

緑の目の若者は得意そうに顎をそらしてみせた。

「他の奴に真似なんか出来ない。まあ天才ってやつだな」

「けっ、うぬぼれてら。バーカ。俺だってすぐ出来るようになる。今に見てろよ」

「なんだと、このチビ」

「ワガママ」

「ノロマ」

「ナルシスト」

「ガキ」

正面から向かい合い、肩を怒らせてぎりぎりと睨み合う。

沈黙がしばらく続いた末、先に顔を離したのは緑の目の若者の方だった。

「じゃあ、俺は帰る」

ぼそっと言い放つと、出会った時やっていたように革のマントを頭から深く被り、ライに背中を向ける。

歩きだしかけて足を止め、一瞬だけ振り返った。「またな」とか「元気でな」とか出て来るかと思ったら、なにも言わなかった。意地のように引き結んだ唇は再び開くことはなかった。

若者は黙って前へ向き直り、すたすたと去って行った。あっという間に背中が小さくなっていく。

あっけに取られていたライは、舌打ちした。

くそ。あいつ……、なんて奴だ。大人のくせに、どれだけ別れが苦手なんだ。さよならもまともに言えないのかよ。

わかってる。こんなふうに誰かと別れるのは、あいつにとってしんどいことなんだ。寂しいと思うのが嫌いなんだ。ひとりになると実感する、その瞬間が。

だから、無愛想に振る舞って最初から他人を近づけようとしないんだ。別れのたびに味わう、むき出しの孤独にうっかり触れてしまわないように。不意討ちの寂しさや悲しみを注意深く避けて生きるために。

でもあいつはわかってない。全然わかってない。

別れたって、また会えるんだ。いつだって好きな時にまた会えるんだ。あいつがそうしたいと心から望みさえすればいつだって。

だってそれが、友達。

ったく、子供に気を遣わせやがって!

「おーーーーい!!」

ライは徐々に離れていく背中に向かって、力いっぱい叫んだ。

ちぎれるくらい手を振って、お腹の底から声をしぼり、彼の美しい名前を繰り返し呼んだ。

「また、来いよなーーー!待ってるぞ。約束だぞ!

木彫り、教えてくれよな。スープも食いに来いよな。大好きな人に結婚の申し込み、頑張れよな!!」

驚いて振り返った彼の顔は離れていたのでもう見えなかったが、どんな表情を浮かべているのかライにはなんとなく想像がつくような気がした。

やがてわずかに間があったのち、遠くなった人影から叫び声が返って来る。

ライはそれを聞くと、その場ににしゃがみ込んで体を丸め、声も出ないくらい笑った。

あんまり笑いすぎたから、目尻に雨粒みたいな小さな涙が湧いた。



「スープに野菜、入れんじゃねーぞ!!」








俺は今日も元気に生きている。

元気でいるってのは、子供の義務みたいなものだ。大人は勝手だから、子供が元気でいればうるさがるくせに、病気をすればおろおろする。都合がよすぎだって気づかないのかな?うるさくもなく病気もしないなんて、それ、子供じゃないだろ。

だから今日も俺は元気でいる。時々疲れるけど、俺が元気だと母さんは安心するみたいだ。だから頑張ってる。ま、これも親孝行のひとつだな。

あの日以来、母さんはなぜか目の調子がすごくよくなったらしい。

時々俺になにか言いたそうにするけど、「ライに言ってもしようがないわよね。それに、あれは幻覚だったんだし……」とかなんとかごにょごにょ言ってやめる。

視力ってやつは、よほど人の体に影響を与えるみたいだ。目の症状が回復すると、母さんは見違えるように活発になった。

家でもてきぱき動くようになったし、仕事も前よりずっとはかどってるらしい。おまけに、兄ちゃんの絵に急に「ここの色はもっと濃い方がいいんじゃないの?」とか「これ、背景の書き込みが足りないと思うわ」と文句をつけるようになった。

かわいそうな兄ちゃんは完全に戸惑ってる。最近木彫りを始めたばかりの俺は、兄ちゃんに少しだけ同情する。ゲージュツって外野からあれこれ言われたくないものなんだよな。

でも、文句をつけてる時の母さんはこれまた元気だ。

俺は俺で忙しい。朝から家庭教師が来るようになって宿題も増えたし、ククリナイフは心底使いづらくて、真剣に彫らないとすぐに手を切っちまう。

学校が休みの日にはあいつにもらった入場手形を使って、王城内の商工業ギルドにも顔を出してる。といっても、もう仕事を探したいわけじゃない。

口髭の事務長の話は面白いし、小間使いのあの子供、たまに一緒に飯を食ってやるとえらく喜ぶんだ。始終怒ってるあの婆さんも相変わらず元気だ。あのぶんじゃ、間違いなくあと三百年は生きるな。

お喋り好きな家庭教師がいつか言ってた。ライアンという俺の名前。

それは彼の故郷バドランドの英雄であり、かつて邪悪に覆われたこの世界を救った、翡翠色の瞳をした天空の勇者の仲間と同じ名前なんだそうだ。

そういえば護衛隊長のスティルがこのあいだ、しびれを切らしたように声をかけて来たっけ。

「小僧、あのお方はその後息災でいらっしゃるのか?あの美しき偉大なる勇者様……、あ、いや、その……」

俺はなにも答えない。誰にもなにも言わない。

ここのところ毎日、四番街の袋小路の裏路地、ディートのよろず屋を冷やかしている。あいつが作った木工製品は最近さらに人気が出て、もう二十日も前に全部売り切れちまったそうだ。

だからきっと、もうすぐあいつはやって来る。

また身を隠すように頭から深々とマントを被って、その魔法の手で作り上げた売り物を山ほど抱えて。

いくら約束したからって、あの性格で素直に遊びに来るとは思えない。だから、迎えに行ってやるんだ。今度は俺があいつを連れて行ってやるんだ。

大好きな人と無事に結婚できたのか、聞きたいことは山ほどある。自慢のスープには、もちろん野菜は入れてない。

まったく、大人って本当に世話が焼けるよな。

繰り返す日々はおだやかで、風にあおられた本のページみたいに読んでも読まなくてもぱらぱら進み、俺の体もいつか大きくなって子供を卒業する。

目覚めてあくびをひとつしたら、磨きたての窓硝子が切り取る世界から、今日もたったひとつの朝日が昇る。

心を飛び跳ねる俺だけのわくわく、俺だけの喜び。誰にもありかを教えない思い出の宝箱は、町はずれの木の根元にも伝説の洞窟にも眠っていない。いつもこの胸の中で輝いてる。

だから、俺だけのもの。

あの日出会ったあの勇者のことは、永遠に俺だけの自慢の秘密なんだ。




―FIN―


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