あの日出会ったあの勇者



「帰るぞ、ライアン」

雨は既にやんでいる。風もそう強くない。

遠くに見える煙突から昇る蒸気が、天空に向かってまっすぐ線を描いている様子から、おそらく城下街もすっかり晴れていることだろう。

女たちに別れを告げ、壁向こうに隠れていたライのところまで戻って来ると、緑の目の若者は空を見上げた。

雲間から顔をのぞかせている太陽は、既にかなり西にある。若者は何も言わなかったが、整ったおもてにかすかに気がかりそうな表情を浮かべた。

このぶんでは、あと2時間もしないうちに日が暮れてしまう。彼が郷里に残して来ているという「連れ」は、今頃首を長くしていとしい恋人の帰りを待っていることだろう。

若者が急いでいるのはわかっていた。だけど、だからこそ、ライは最後のわがままをどうしても言いたかった。

「なあ」

緑の目の若者はライを見下ろした。

「なんだ」

「帰りはさ、あの気持ちが悪くなる移動魔法じゃなくて、歩きたいんだ。駄目かな」

「いいよ」

緑の目の若者は迷うことなく頷いた。

「そのほうがいい。今日は三度も禁忌を破った。これ以上無用な魔法は使いたくない」

「三度?二度だろ。俺の足を治してくれたのと、ここまで瞬間移動したのと」

緑の目の若者はそれには答えず、「雨上がりでまだ足元が悪い。転ぶんじゃねえぞ」とそっけなく言った。

西に傾きかけた太陽は、少しずつ黄金色から濃い橙色へとその色彩を変化させてゆく。

一番街の工場地区を抜けると、街道は五番街まで続く住民街を突っ切る。街道と言っても整備されていない砂利道がほとんどだし、勾配が多いので決して楽な道ではない。

左右には質実剛健なブランカ王国独特の、土造りの素朴な家々が立ち並ぶ。どこかの窓の隙間から、夕食を炊ぐこうばしい香りが漂って来る。

シチューだろうか?乳を煮詰める甘い匂い。縄に吊るした洗濯物がはためく。遠くで子供の笑い声。家の数だけある暮らし。

今までは、他人の暮らしを羨ましがってばかりいた。でも今は違う。生きてゆく形はそれぞれにあって、それぞれみな異なる形を描く。ひとつとして同じものなんてない。

でも、どれもみんな大切だ。みんな大事だ。

道端に寝そべっていた野良犬が、歩いて来たふたりを見つけて顔を上げ、大きな欠伸ひとつして億劫そうにまた目を閉じた。

緑の目の若者と小さなライ、並んだ大小ふたつの影が地面に長く伸びる。

「……なあ」

「なんだ」

「今日はありがとな」

「礼を言われるようなことはしてない」

「俺、これからはちゃんと学校に行くよ。たくさん勉強して、家庭教師の言うことも聞く。

もう兄ちゃんの絵の邪魔もしない。母さんの手伝いもがんばる」

緑の目の若者は珍しく声を立てて笑った。

「いきなりの大変身だな。無理すんな。大風呂敷を広げすぎると続かねえぞ」

「それとこれ、大事にするよ」

ライは手首を持ち上げた。革ひもにくくりつけられた五芒星の銅板。ブランカ王城内商工業ギルドの入場手形だ。

「いつか大人になって、めいっぱい働いて、母さんをうんと楽にしてあげるんだ」

「ほどほどでいいさ」

緑の目の若者は笑って言った。

「無理に何かしなければと思わなくてもいい。子供はそこにいるだけでいいんだ。たぶんな」

「子供を持ったこともないくせに、えらそうに言うなよ」

「う、うるせー」

「そうだ」

ライは瞳を輝かせた。

「なあ、俺がこれからやらなきゃならないことはさっき言った。俺は約束を守る。だから、あんたもちゃんと俺との約束を果たせよな」

「……なにをだ」

「里であんたのことを待ってる「あいつ」に、帰ってすぐに結婚の申し込みをするんだよ!」

「な……」

緑の目の若者は絶句し、それから真っ赤になった。

「誰も、そんな約束してねーだろ!」

「いっしょに風呂に入ってる時に言ったじゃないか。あいつを絶対に幸せにするって。俺はそのために生きてるって」

「それと、ケッコンとはなんの関係もないだろ」

「馬鹿だなあ。言っただろ、好きならそれをちゃんと形にしたほうがいいんだって。女の人はいつだって、大好きな人からの結婚の申し込みを待ってるんだって。

それともあんたの「あいつ」、他の人に取られちゃってもいいのかよ」

「そんなこと、あるはずがない」

緑の目の若者はむきになったように言った。

「あいつが俺以外の奴を好きになるなんて、ありえないからな」

「あー、馬鹿だ馬鹿だ。聞いてて恥ずかしいよ。あれだけ俺のことを馬鹿にしたくせに、まさかあんたが一番の馬鹿だったとはね」

「なんだと!」

「素直になるんだよ、職人さん。もっと素直に。

意地を張るのをやめて、心の感じたままに」

ライはくすくす笑って、緑の目の若者の脇腹を肘でつついた。

「あんたが俺に言ったんだ。たった今からでもそれが出来る。

だってあんたの大好きな人は、生きてるんだから」

「……」

緑の目の若者は顔を赤くしたまま長いこと黙っていたが、やがて観念したようにぼそりと言った。

「……わかったよ」

「絶対だな」

「だから、わかったって言ってんだろ」

「ヒャッホー。じゃあこれで、あんたもやっと大好きな人を嫁さんにもらうんだ。

ハイホー!ハレルーーヤ!」

ライは顔じゅう笑顔にすると、叫び声を上げて力いっぱい地面を蹴り上げた。

「家に帰ったらすぐに言うんだぞ。結婚してくれって。俺とあんたの約束だ。いいか、男と男の約束だぞ!

俺は母さんを大切にする。あんたはお嫁さんを大切にする。守れなかったらげんこつだぞ。俺は絶対負けないぞ!」

高々と飛び上がるライを呆れたように見つめながら、緑の目の若者は呟いた。

「俺も絶対、負けねえよ」

「そうと決まったら早く帰らなきゃな。なあ、なあ」

「なんだ」

「手、つないでもいいか?」

「駄目だ」

「なんだよ、ケチ!手くらいいいじゃんか」

「お前、もう12歳だろ。男が甘ったれんじゃねー」

「ちょっとでいいからあんたの手、さわってみたいんだよ。魔法の手だ」

「気色悪いこと言うな」

「あーあ、いいよな。俺もあんたみたいな木彫り職人になれたらなぁ。なれるかな?」

「真面目に練習すればな」

「ブランカに品物を売りに来た時は俺んちに寄って、彫り方を教えてくれよ」

「……時間があればな」

「朝早いうちに来て、俺んちでめしを食っていけばいいよ。俺、料理は全然出来ないけど、スープなら作れるんだ。

ずいぶん前に母さんが教えてくれたんだ。あったかくてうまいぞ」

「それは構わないが、ひとつ頼みがある」

「なんだ?」

「野菜は入れるな」

嫌いなんだ、と緑の目の若者が顔をしかめて言うので、ライはおなかを抱えて笑った。

歩けば歩いた分だけ、帰るべき場所が近づいて来る。緑の目の若者はもう出会った時のように、ライに背中を見せて速足で歩くことはなかった。

むしろ、わざとゆっくり歩いているように見えた。まるですぐそこまで近付いている別れを惜しむかのように。最後まで手はつないでくれなかったけれど、すぐそばにいてくれるのはわかった。

だってライの手の甲が、こつんこつんと何度も若者の足に触れたから。

帰り道はいつだってほんの少しさびしい。

家に戻ればきっとまた、母さんと喧嘩することもあるだろう。兄ちゃんとぶつかり合うこともあるだろう。思い通りにならないこともたくさんある。学校だって面倒くさい。子供は不便なことだらけだ。

でもこれで、毎日の暮らしに新しい楽しみがひとつ増えた。

友達を招待する楽しみだ。
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