キスの熱
(触れ合う唇が熱に変わる)
(キスの熱がまた恋を呼ぶ)
(そんな不思議な精霊の魔法が)
(もしもふたりの間に、星のように輝く奇跡を起こすとしたら……?)
想いが通じ合えた翌日に顔を合わせるのは、なんとなく面映ゆくて、まるで久し振りに会うのと同じくらい、胸がぎゅっとうずいて気恥ずかしい。
特に自分たちふたりは、互いに好きだという気持ちを確認しただけで、これから恋人同士として共に生きて行こうと、誓いを交わしたわけでもないのだ。
「あの……アリーナ様」
先に話しかけて来たのは、朝食の間ずっと姿を見せなかったクリフトのほうだった。
「な、なあに」
アリーナは振り向かずにそっけなく答えた。
本当はずっと待っていたから、その瞬間、心臓が体じゅうを跳ね回るくらいどきんとした。
でも昨夜の彼の煮え切らない返答や、さきほどのミネアと寄り添っていた姿を思い出すと、にこやかに笑って返事をするのもなんとなくしゃくにさわる。
だがクリフトのほうは、もっとどう振る舞ったらいいのか解らなかったらしかった。
「お、お、おはようございます。いや、いい天気ですね。
きっと遥か愛するサントハイムも、素晴らしい晴天に恵まれていることでしょう」
とんちんかんなことをうわずった声で言い、右手と右足を同時に出してぎくしゃくと隣を歩き始める。
アリーナは横目でちらりとクリフトを見た。
頭上に広がる空に負けないくらい蒼い目と、緊張でうっすら紅潮した頬。
引き締まった輪郭に乗る目鼻立ちは、幼なじみのひいき目抜きにしても、ずいぶん他人の視線を引くほど整っていると言えるだろう。
小さな頃から一緒にいるこの青年が、自分のことを誰よりも好きだとささやいたのは、ほんとうに夢の中の出来事ではなかったのだろうか?
アリーナは試しに、なにも言わずだっと早足で駆け出してみた。
すると彼は驚いて目を見開き、慌てて走ってついて来る。
しばらく全速力で走ってから急停止し、今度はくるりと反転して逆走する。
クリフトは仰天したように口を開けたが、それでも負けじと必死で追いかけて来た。
どうやら気まずいものの、主人であるアリーナと離れて歩くつもりはないらしい。
アリーナはぴたりと走るのを止めた。
もう一度身を翻し、再び皆が向かう方へ歩き始めると、クリフトも息を切らしながら、よろよろと体の向きを変える。
「ア……アリーナ様?」
クリフトはすっかり困惑して言った。
「ど、どうなさったのです。お忘れ物でも思い出したのですか。
お申し付け下されば、すぐにわたしが取って参りますが」
「ううん、違うわ」
アリーナは首を振った。
なにかが喉に引っ掛かったような、もどかしい思いが全身を包んでいたけれど、それをうまく言葉にして彼に伝えるのは、不器用な自分にはとても難しかった。
「その……クリフト」
「はい」
「お、お、お前は」
アリーナは真っ赤になってどもった。
「その、あの、だ、だから……。
お、お前はこれからも、わたしとちゃんと一緒にいてくれるのかしら」
クリフトは二、三度まばたきしたが、すぐに頷いた。
「わたしはなにがあろうとも、いつもアリーナ様のおそばに従わせて頂きます」
「従うとか、そういうのじゃないの」
アリーナは唇を噛んだ。
「そうじゃなくて……お前は、わたしとこれからも」
「足の速さでは姫様にかなわぬかもしれませんが、どんな断崖僻地、また砂礫や汚泥の続く難所であろうと、必ずわたしはアリーナ様と共に参る所存です」
「だから、違うのよ」
アリーナは次第に苛々して来た。
(昨日、ああいうことがあったばかりなのに……。
少しはわからないのかしら、この鈍感!)
だが堅苦しいにせよ、口にしている内容は誰にもひけを取らないほどの、自分への強い愛情が込められているような気もする。
(そんな言い方じゃなくて、わたしが聞きたいのは)
(クリフト、これからもわたしのことを好きでいてくれるの?)
(わたしたちいつかは、お父さまや国民みんなに認めてもらえるような、恋人どうしになることが出来るの?)
(わたしを愛していると告げたのは……本当のことなの?)
うつむいたアリーナの睫毛が震える。
クリフトは小さく首を傾け、黙ってその様子をじっと見つめていた。
「アリーナ様」
「だ、だから、クリフト……」
名を呼ばれて顔を上げる、その瞬間。
なにかに強く引き寄せられて、視界にさっと鳥が横切るような影が走った。
強い腕の力。
息をつく間もなく抱きしめられて、指が顎を持ち上げ、唇がふさがれる。
それはあまりに突然で、だから瞳を閉じることすらままならない。
アリーナは睫毛が降りて来るより近くで、クリフトの前髪が頬を撫で、自分を映す蒼いまなざしが、まるで翼を閉じるようにそっと伏せられるのを見た。
長くて短い、魔法のキス。
「好きだ」
そっと唇を離し、クリフトはアリーナを抱き締めたまま微笑んだ。
「これからどのような未来がおとずれようとも、命尽きるまでずっと貴女のお傍に。
例え神のお許しがなくとも、わたしという人間は、アリーナ様、永遠に貴女ひとりだけのもの」
囁きが消えると、再び目の前に透明な虹のような影が揺らめいた。
だから今度は、自分から顎を上げて待とうとする。
でも眩しくてよく見えない。
彼はわたしよりずっと背が高くて、今は太陽が大地をまばゆく照らす時間で、
そんな光の中、こんなふうに彼に抱きしめられたことなんてなかったから。
だからクリフトが今どんな顔をしているのか、どんなふうにわたしを見つめているのか、全然わからない。
解るのは熱さだけ。
ああ、今触れた。
クリフトのかぐわしい息。
漂う白檀の香り。
額を掠める髪の柔らかさ。
そして、重なる唇の熱。
小さな頃からずっとずっと探し続けて、ようやく出会ったふたりの唇から伝わる、
めくるめくように甘くて切ない、待ち焦がれていたキスの熱。
唇が離れると、クリフトがなにかを促すように優しく髪に触れた。
アリーナはクリフトの腕の中で、前方を歩いているはずの仲間達を振り返った。
(みんな)
みんな、いる。
想いを交わし合うふたりの邪魔をせぬよう、少し離れた木立ちの向こう。
恥ずかしげに武骨な顔を赤らめ、頭をかくライアン。
満面の笑みで両手を振り上げ、巨大な道具袋をくるくると回してみせるトルネコ。
ぶっすりと渋面を作り、だがどこか愉快そうに肩をすくめるブライ。
両手で瞼をふさぎ、開いた指の間から片目をつぶって、その場を飛び跳ねるマーニャ。
傍らで晴れやかな微笑みを浮かべ、深々と頭を下げるミネア。
そしてそんな彼らから少しだけ離れた木の袂で、いつものように腕を組み、風に煙る湖水のような瞳細め、こちらを見つめる勇者の少年。
その唇の片端がゆっくり持ち上がると、目をこらして見ていなければ誰にも解らぬほどかすかに、一瞬だけ動いた。
(やっと、始まったな)
頭の上でクリフトが頷くのに気付いて、アリーナは顔を上げた。
青空みたいな瞳の中に、小さなふたつの自分が映っている。
(そうだわ)
これが結末じゃない。
まだ始まったばかり。
新しい絵本をわくわくしながら紐解くように、眩しい輝きに包まれている、まだ誰も知らないわたしたちふたりの、これからの物語は。
「痛っ」
背中にぎゅっと腕を回すと、傷の痛みにクリフトが短い叫びを上げた。
「あ、ごめんなさい」
「いえ、大丈夫です」
「全然治っていないから、触っただけでもすごく痛いわよね。
……でもどうして、すぐに回復する魔法を使わないの?」
するとクリフトは鈴のように笑った。
世界でいちばん大切な宝物がこの手にあるのを確かめるように、少女の額に唇を押し当て、舞い降りる陽射しに不似合いなほど、ひそやかに囁く。
「この傷を癒して下さるのはあなたです。
あなたの傍にいられれば、それだけでわたしには解けない魔法がかかる。
だからもう一度、ここでキスしてもいいですか。
わたしの、
わたしだけのアリーナ様……」
一秒一秒が満ち足りて甘く輝く。
これから自分に訪れる未来の時間には、必ず彼の優しい姿が共にあるだろう。
少女は目を閉じて微笑んだ。
「キスをするのも、わたしたちに幸せの魔法をかけるのも。
それは全部あなた次第なのよ、クリフト」
―FIN―