キスの熱



「さあ、行くぞ」


抜けるように青い空にいくつもの綿色の雲が浮かび、東から射していた金色の陽光が、南へ高く昇りつめた頃。

一行は宿の扉を開けて、それぞれの荷物を小脇に抱えながら、思い思いの速さで出発の歩みを進め始めた。

「あーあ、これでまたコーミズ村ともしばらくお別れかぁ」

マーニャはため息をつき、その声が思いのほか寂しげに聞こえてしまったので、慌てて付け足した。

「ま、まあこんな村、帰って来たところでなんの娯楽もありゃしないし、田舎くさいつまんない場所なんだけどさ」

「故郷は大事にせねばならんぞ、マーニャ殿」

ライアンが顔をしかめ、諫めるように言った。

「我らのように世界を巡り、見知らぬ地へ命を賭した冒険の足を踏み入れる者ほど、帰りどころとしてのふるさとを、大切に心に携えてなければならぬのだ。

それがしとて、愛するバドランドの風の匂い。国王がおわします閲兵式に流れる凱歌。

この胸にしかと刻み込み、一度たりとも忘れたことはない」

「れっきとした王都であるバドランドやサントハイムとは、違うもの。こんな田舎村。

こんなところが故郷なんてさ……」

マーニャは不満げに口を尖らせたが、すぐそばを黙って歩いている勇者の少年に気付くと、急いで話題を変えた。

「それにしても、おじさんったら大丈夫なのかしら。

ミネアの熱が移っちゃったって、朝から寝込んでるらしくて、出発の挨拶すら出来なかったけど」

「大丈夫よ」

ミネアが後ろで微笑んだ。

「病は回復に向かっているし、クリフトさんが皆様のぶんも、まとめてご挨拶をして下さったの」

「それが腑に落ちないのよね。なーんで、クリフトなわけぇ?

この中で、代表でおじさんに挨拶をするとしたら、間違いなく子供の頃から親しいあたしたちでしょ」

「だから、移る病だと言ってるだろ。解らない奴だな」

勇者の少年がうんざりしたように言った。

「大体宿のあるじじゃなく、お前に病が移ればよかったんだ。

そうすればそのガアガアうるさい喋りを聞かずにすんで、久し振りに静かに過ごせたのに」

「あーら、おあいにくさま。ガキの挑発にはもう乗らないわよーだ」

マーニャはせせら笑った。

「あたし、知ってるんだから。

ミネアが寝込んでる間、あんたは休みもせずに傍にいて、額の汗を拭いたり、窓を開けて空気を換えたり、細かく気を配りながらずうっと見守っててあげたでしょ。

口のききかたはなっちゃいないけど、ほんとはとーっても優しくて、仲間思いのいい子なのよねえ。

あたしも熱が出たら、是非あんたに看病してもらうことにするわ。

ねえ坊や、汗を拭いて水を飲ませて、それから次は一体どんなことをしてくれるっていうの?」

「な、な、なにを……」

色っぽくウインクされて、勇者の少年の普段は冷たい美貌がひきつり、みるみる耳まで真っ赤に染まった。

「ほら、言いなさいったら。うぶな可愛い勇者様!

それともあたしが手取り足取り、看病の仕方をひとつずつ教えてあげましょうか?」

「う……、うるさい!」

裏返った声で叫ぶと、少年は動揺してしまったことを恥じるように、顔を赤くしたままマーニャをきっと睨み、その場を走り去ってしまった。

「ふん!このあたしに勝とうだなんて百年早いのよ」

マーニャはつんと顎を上げ、形のよい胸を反らした。

「天空の勇者だかなんだか知らないけど、たかだか17才のガキじゃないの。

つんけんする前に女の扱い方をもっと勉強してから、出直して来ることね」

一部始終を見ていたミネアがぷっと吹き出し、声をあげて笑った。

「なによ、ミネア」

「ごめんなさい、あんまりおかしかったものだから」

ミネアは笑い過ぎて目尻に滲んだ涙をそっと拭った。

「いつも寡黙なあの方が、あんなに感情をあらわにするなんて。

姉さんと勇者様って水と油だと思ってたけど、案外いいコンビなのかもしれないわね」

「ええ?冗談やめてよ」

マーニャは嫌な顔をした。

「そりゃあこの世にふたりとないくらい、恐ろしく綺麗な顔をしてる奴だとは思うわよ。

でもあたしは駄目!いくら見た目がよくたって、あんな性格のねじ曲がったインケン男、きっと付き合っても言うこと聞いてくれないし、荷物は持ってくれないし、

ご馳走してくれないし、ちやほやしてくれないし、プレゼントを貢いでもくれないし……」

「姉さん……わたしはなにも、そういう意味で言ったんじゃないのよ」

ミネアはため息をついた。

「それになあに、その条件。素敵な人っていうより、姉さんにとって都合がいい人っていうだけじゃないの」

「だーって、しょうがないでしょ。

一体どんな男が好きなのか、自分でもまだよくわからないんだもん」

艶やかで煽情的な外見を持ち、見るからに男性についての知識が深そうなマーニャが、不意に肩を落とし、自信なげな本音をぽつりと洩らした。

「恋に落ちるって、すごく難しい。

流れ星みたいに、いつ自分のもとへ降りて来るかもわからなければ、遠い空ではあんなにぴかぴか輝いて見えたものが、手にしてみるとただの石ころだったなんてこともあるわ。

あたしには、正直言ってまだよくわかんない。

だからひたむきに、一人の男に心を奪われてたあんたが、ちょっとだけ羨ましかったんだ」

ミネアは眉を上げて姉を見た。

マーニャは照れ隠しに鼻に皺を寄せて舌を出し、おどけた顔を造った。

「……で、ちょっとだけじゃなくて、死ぬほど羨ましいのがあいつらよ」


姉が首を上げ、行儀悪く顎をしゃくって差し示す方向に並ぶ、ふたつの影。

降り注ぐ陽射しを掌で避けながら、傍らの背の高い姿をなんとか捉えようと、瞳を凝らす鳶色の髪の少女。

微かなためらいを漂わせながら、でも傍目にもはっきりと解るほど愛おしそうに、その瞳に微笑みかける、優しい面差しの青年。

仲間達の最後方を肩を並べて歩く、アリーナとクリフトの姿だった。
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