キスの熱
そして、クリフトはというと。
宿屋のあるじの身体を寝台に横たえ、そっと扉を閉めた彼のもとに、青ざめたミネアが駆け寄って来たのは、皆が朝食を終えてすぐのことだった。
「クリフトさん!」
「しっ、静かに」
クリフトは目で制した。
「今魔法を施し、ようやくぐっすり眠ったところだ」
穏やかにたしなめられて、ミネアははっと口元を押さえた。
「……ごめんなさい」
クリフトは微笑んでみせたが、まだ朝だと言うのにその表情にはすでに疲労が滲んでいた。
「キアリクで麻痺を取り、ラリホーもかけているから、ちょっとやそっとでは起きないだろうけれどね」
「おじさんの体は……」
「心配ない。使用人の方たちには、アイオア熱が感染して体調を崩したようだが、きちんと薬を飲んで、あとは回復を待つばかりだと伝えてある」
昨日ミネアと交わした約束を守り、敬語を使わずにクリフトは柔らかく喋った。
ミネアはそれに気付いたが、さすがに喜びに浸る心の余裕はなかった。
「……わたしのせいですね」
呪いから回復した第六感を駆使して、あるじとクリフトの間で繰り広げられた一連の出来事を、その場に居ずしてすべて把握したミネアの衝撃は、言葉に表せないほど大きかった。
「幼馴染みのナナが急に亡くなったのを、不審に思ったことはあったけれど、まさかその原因が父エドガンにあっただなんて。
そしてそれがおじさまを、こんなにも長い間苦しめてきたなんて……。
錬金術が未完成で、幼いナナの体が耐えられないことを、わたしが事前に知ることが出来たなら、きっとこんな不幸な結果にはならなかった。
未来を読む占い師を標榜しておきながら、わたしはなんて無能な役立たずだったのでしょうか」
「それは違う」
クリフトはきっぱりと言った。
「そんなふうに考えてはいけない。貴方はなにも悪くない。
もしナナさんの魂が少しでも貴方に責任があると感じていたなら、きっともっと早く、その思いをなんらかの形で伝えようとしたはずだよ。
これまでなにも知らずにいたということが、ナナさんの最大の意思表示ではないかとわたしは思う。
そして貴方が仲間達と共に行動している今、事件は起きた。
恐らくナナさんの魂が、全てをいざなっていたのではないだろうか。
長い苦しみから父親を解放し、残された生を安らかに送らせてやるために、わたしたち導かれし者達を使って、なんとかその願いを叶えてもらおうと」
「もし、そうだとすれば」
ミネアはうつむき、こらえきれずに低い嗚咽を洩らした。
「これでナナの思いに少しでも報いることが出来たと、信じていいのでしょうか。
わたしは故郷に帰って来てもよかったのだと、信じていいのでしょうか……」
(ナナ)
日々を重ね、薄情にも追憶の中に忘れかけていた、大好きだった幼馴染みのあどけない顔。
(ナナ、ごめんね。ずっとずっと、誰かの助けを待っていたのね)
(遅くなってごめんなさい。そして……)
(父を……わたしを許してくれて、ありがとう)
瞼の向こうで白い歯を見せる、永遠に年を取らない懐かしい笑顔が、心を覆っていた悲しみ全てを綺麗に洗い流して行く。
ミネアは深々と頭を下げた。
「本当に感謝しています、クリフトさん」
クリフトは困ったように眉を下げた。
「礼など。わたしはなにも」
「いいえ、全て貴方さまのお力あってのことですわ」
ミネアは溢れる涙を隠そうともせずに言った。
「貴方はわたしに、故郷を想う心を、家族を想う心を取り戻させてくれました。
貴方の思慮深い対応があったからこそ、こうして全てを無事に解決することが出来たのです。
貴方は、貴方は本当に」
その時、感極まるあまりミネアは思わず口を滑らせた。
「宝石のように心の美しい、誰よりも素敵なかた。
わたしはそんな貴方をずっと尊敬し、深くお慕いしておりました」
「え……」
クリフトは戸惑ったように目を見開いた。
だがミネアは自分が口にした言葉の意味に、まるで気付いていないように、両手に顔を埋めて、肩を震わせながら静かに泣き続けていた。