キスの熱
―――そして、一刻ののち。
床に屈み込んだアリーナは、革靴に足を入れ、二重に結んだ紐で足首を堅く縛っていた。
山羊の皮を織った、軽くて歩きやすい靴を履いている仲間たちと、自分の装備は違う。
自分が履いているブーツは、丈夫な馬皮を何枚も重ねて織り上げ、先端には銀がはめこまれている、蹴りを使う武術者専用の非常に重いものだ。
最初に履いた時は、あまりの重量感にまっすぐ歩くことすら出来なかったが、やがて慣れた。
今ならこの足を振り上げてくるりと反転させ、かかと落としだって楽々と決めることが出来る。
靴を履きマントをつけ、すっかり旅仕度を終えて立ち上がったところで、アリーナは気が付いた。
クリフトと、ミネアがいない。
客用の居間で、旅立ちの準備を整えているのは、カラスのように騒がしく喋りたてながら、肌を守る油を塗るのに余念がないマーニャ。
一体何が入っているのだろうと思うほど、大きくふくらんだ道具袋を大事そうに背負うトルネコ。
杖を片手に、枕が堅くてよく眠れなかったと愚痴をこぼすブライ。
それに鷹揚に頷きかけながら、磨き布で剣と盾の手入れを、入念に行うライアン。
そしていつもと同じように、皆から少し離れたところで壁にもたれ、腕を組んでじっと窓の外を見つめている、勇者と呼ばれる少年。
視線に気付いたのか、翡翠色の切れ長の瞳が、ふとアリーナの方を振り返った。
「どうした」
「え……べ、別に」
アリーナはなぜかうろたえた。
「そ、その、クリフトが、どこにも見当たらないなって」
「食事の片付けが終わったから、宿代を払いに行ってるんだろう。ミネアも一緒に。
あいつら二人が一番、金の管理にはしっかりしているからな」
少年の整った顔に、珍しくからかうような笑みが浮かんだ。
「ほんのいっときのあいだでも、クリフトと離れているのがそんなに嫌か。
心配しなくても、あいつの頭の中は、お前と神様のことでいっぱいだ。
少しは信用して、あいつの思うがまま行動するのに任せてやれ」
「し、心配なんてしてないわよ!」
アリーナは顔を赤らめた。
「わたしはいつだって、クリフトのことを誰よりも信じてるもの」
昨夜のキスや抱擁で分かち合った温もりが、そう教えてくれたのだと言いかけて、慌てて言葉を飲み込む。
だが少年は含みのある微笑みをたたえたまま、「そりゃ、よかったな」と呟いて、もうそれ以上話すことはないというように、ふいと視線を離してしまった。
居心地の悪さが込み上げて、アリーナは急いでその場を離れた。
客室に続く廊下を小走りに抜け、皆の姿が見えなくなってから、ほうっと息をつく。
(なにかしら、あいつのあの目)
感情の読みにくい、冷たい光をたたえているまなざしに、何故かほのかな柔らかさが混じっていて、それがアリーナをひどく戸惑わせたのだった。
(もしかして知ってるのかもしれない、わたしたちのことを。
……クリフトが話したのかな)
人嫌いで、他人を寄せ付けない勇者の少年が、何故かクリフトだけには心を開き、時折ふたりで話し込んでは、めったに見せぬ笑顔を向けているのを、アリーナも知っている。
(……やだな)
胸の奥底を、ちくちくしたなにかが刺す。
アリーナはため息をついた。
(わたしったら、焼きもちを妬いてるんだ)
病弱なミネアへの、クリフトの献身的な看護ぶりに嫉妬を抱いたかと思ったら、今度は男同士の友情にまで、目くじらを立てている自分がいる。
(ああ、なんだか自分がどんどん自分じゃなくなっていくみたい)
(恋をして、焼きもちを妬いて、我慢出来ずに怒って、悲しくて涙を流して、どうしても離れたくなくて、触れたくて仕方がなくなって……。
人を好きになるって、なんて忙しくて面倒で、思い通りにならないことばかりなんだろう)
だけどそれでも人は、誰かを好きにならずにはいられない。
「……さん、ありがとう」
声にはっと気付くと、廊下の一番奥の一室の前で、クリフトとミネアが向かい合い、小声でなにかを話している姿が見えた。