キスの熱
「……さすがは、神官さんだ」
宿屋のあるじは涙に濡れた顔をこすると、照れ隠しのように笑った。
「滔々と、水の流れるがごとき素晴らしい訓示だね。
正直に言って、わたしのような田舎村の商人には、あんたの言っていることはさっぱり解らない。
でも、ちゃんと伝わってるよ。言葉なんかよりもっと大きなものが、この鈍いわたしにもちゃんと伝わっている。
ありがとう。
……そして、済まなかった」
その時。
額にかざした手を外し、頷きかけようと首を傾けたせいで、一瞬反応が遅れた。
宿屋のあるじが驚くほどの素早さで顎を上げ、スープ皿からすくい上げた紙包みを口に押し当てる。
クリフトは目を見開いた。
叫びを上げるまもなく、腕を掴んで力任せに紙包みをむしり取る。
だがあるじは喉を鳴らして、わずかに残っていた中身を急いで飲み込むと、小さく呻き、またたくまにその場に崩れるように倒れ込んだ。
「……どうして」
クリフトはあるじの巨体を抱え起こすと、頭を支えて自らの胸にもたせかけた。
「どうしてです!」
「……おや、意外だね」
宿屋のあるじは真っ青な顔を歪めながら、声を立てて笑った。
「神官さん、あんたでも怒ることがあるんだ。
森の奥に住む妖精ニンフの泉みたいに、いつも穏やかな目をしていたのに」
「貴方はもう、十分に苦しんだではありませんか」
クリフトの声が震えた。
「これ以上自分を罰する必要など、どこにもありはしないのに。
ナナさんが見守っているというわたしの言葉は、貴方の心には届かなかったのですか?」
「安心してくれ」
力ない声がまた笑った。
「言ったろう?わたしはバルザックとは違う。
これは毒じゃない。ほんの少しの間、痺れと痛みが順番にやって来るだけだ。
ああ、止めてくれ神官さん。回復魔法なんていらないよ。
ミネアに負わせようとしたこの苦しみをきちんと引き受けてこそ、わたしの贖罪は、ようやく終わりを告げるんだから。
人は自ら痛みを背負い、その痛みで確かめなければならないこともある。
背中の怪我をわざと治さないあんたならわかってくれるだろ、優しい神の使いさん」
クリフトははっとした。
真っ青で脂汗に濡れた男の顔が、にっこりと笑う。
「法衣に血が滲んでいるよ。怪我をしているんだね。
それほどの傷、歩くどころか、立っているのもひどく辛かったろう。本当に済まなかった。
でもあんたのように癒しの力を持つ人が、誰かのためにそうして痛みを負うこともあるんだね。
そんなにも大切な誰かが、あんたにはちゃんといるんだね」
クリフトは黙って目を伏せ、かすかに頷いた。
あるじは微笑んだ。
「わたしも最初から、そうすればよかった。
傷つけられて痛みを返そうとするんじゃなくて、その傷を背負う強さを持てばかったんだ。
そうすればミネア、そして……ナナも、
きっと………」
やがて男の言葉がふつりと途絶えた。
しんと冷えた沈黙が空気を伝い、指先まで滑り降りる。
顔を近付け、すきま風のように洩れる呼吸と、上下に起伏する胸を確かめてからも、クリフトはそのまましばらく動かなかった。
長い指がごく一瞬、瞼を押さえ、うつむいた唇から誰にも聞こえない祈りの言葉がこぼれる。
やがて両腕で、力を失った大きな体をためらいなく抱え上げ、彼はそっと扉を開けて、音も立てずにその部屋を出て行った。