キスの熱
「やめましょうだと?」
まだ若く、どちらかといえば女性的な優しい面差しをした、蒼い目の神官の青年。
彼が祖国サントハイムで、神の子供と渾名されていることを、遥か遠いコーミズ村の宿屋のあるじが決して知ろうはずもない。
細くなめらかな白皙に浮かんだ、痛切な悲しみの表情に、太った男はついにかっとなった。
「もうやめましょうだって?笑わせないでおくれ。
お前のような世間知らずの若僧に、一体なにが解る!」
「貴方は間違っている」
クリフトは言った。
まるで目に見えぬ剣を振りかざしたような、揺るぎない声だった。
「わたしの声が貴方の心に届くまで、何度でも繰り返して伝えましょう。
貴方は間違っている。
お解りにならないのですか、ナナさんは今も貴方を見ている。
在りし日と同じ曇りない瞳で、ずっと貴方のことを」
クリフトが静かに近付くと、宿屋のあるじは怯えたように後ずさった。
「で、出鱈目を言うな。馬鹿にしているのか!
最もらしいことを言って、わたしを煙に巻こうとしているんだな、このいんちき聖職者め!」
「本当は貴方にも解っているはずです」
クリフトはまた一歩足を進めた。
「ミネアさんに害をなそうとするつもりなら、隣人の貴方にはいくらでも機会があったはず。
だがナナさんを失った後も、エドガンさんがお亡くなりになった後も、貴方は彼女のことを、それまでと変わらず温かく見守り続けて来たじゃありませんか。
それは偽りや演技なんかで出来ることじゃない。
貴方は怖くなったんです。時が流れ、いつしか記憶の砂の中に、ナナさんを失った悲しみや怒りが埋もれて消えてしまうことが。
憎しみの心をなくしてしまうことが、ナナさんの死そのものをなくしてしまうことになるのではないかと恐れ、
だからようやく癒えかけた傷口を自ら掻きむしり、もう一度血を流させるため、己れに復讐を無理強いしようとしている」
「違う、違う、違う!」
宿屋のあるじは荒々しくかぶりを振った。
「何も知らないくせに、解ったような口をきかないでくれ!
わ、わたしはミネアが疎ましくて仕方なかった。
ナナが死んだ後、毎日のようにわたしのところにやって来ては、全てを見透かしたような目をして、おじさん、ナナはいつもおじさんを見守っているわと囁いた。
まるでさっきのあんたのようにね!
だが、だからと言ってどうする?わたしにはあんたやミネアのように、形を持たぬ声を聞き取る力はない。
わたしにはナナが、お父さん、敵を取ってくれ、この憎しみを忘れないでくれと願っているようにしか思えなかった!
だから万聖節を狙って、エドガンの墓場に呪詛を仕掛けたんだ。
あの世から魂が舞い戻る死者の日に、ミネアが報いを受けるところを、可哀相なナナにしっかりと見せてやるために!」
「ナナさんがそれを望むと思うのですか」
クリフトは悲しげに言った。
「貴方のやっていることは、全て格好だけだ。
ミネアさんに呪詛を気付かせぬよう、食事に感覚を鈍らせる薬を混ぜましたね。
だがこんなにもたくさんの仲間を連れているというのに、そうしたのは彼女ひとりに対してだけだった。
わたしたちがいずれ気付くと解った上で、敢えてあんな単純な罠を掛けたのでしょう。
墓場のリビングデッドだってそうだ。あの怪物は呪いが解かれようとする、まさにその時現れた。
恐らくそうなるように、あらかじめ召喚術が掛けられていたはず。
つまり「ミネアさんが無事に回復すると決まった時」にだけ、現われる仕組みになっていたわけです。
わたしたち彼女を守る仲間が、必ず倒すであろうということを前提にして」
そこでクリフトは言葉を切り、厳かに床に膝まづいた。
呆然とする宿屋のあるじの額に片手をそっとかざすと、澄んだ声で呟く。
「もう、赦されてもいいのですよ」
その時、視界を覆う青年の掌から柔らかな光が湧き起こり、眩しい粒子となって全身に降りかかる錯覚が、男を包んだ。
「貴方の痛みは他の誰にも負うことが出来ない、あなただけの痛み。
長かった悲しみの呪縛が今こそ解かれ、どうか神の御手が貴方に安らぎと慈愛に満ちた生を、お与えになりますように」