キスの熱
「バルザックですね」
クリフトは感情を滲ませぬよう、懸命に抑えた声で呟いた。
バルザック。
師であるエドガンを殺害し、未完成の進化の秘法を奪い去り、キングレオや祖国サントハイムをも巻き込む恐るべき陰謀を企んだ、悪の権化とも言える忌まわしい男。
既に倒した仇敵だとはいえ、クリフトにとっても決して快い響きの名ではなかった。
「詳しいんだね」
だが導かれし仲間達がこれまで乗り越えて来た、幾多の苦難を知らぬ宿屋のあるじは、意外そうにクリフトを見た。
「神官さんはひょっとして、この話を知っていたのかい。
ナナが死んだ時ミネアとマーニャは、それぞれモンバーバラに占星術と舞踊の修行に出ていて、
自分たちの留守中に、友人が病気であっけなく亡くなったとしか、聞いていないはずなんだが」
「わたしは何も知りません。そしてミネアさんも何もおっしゃいませんでしたから、きっとご存知ではなかったでしょう」
クリフトは首を振って黙り込み、静かに付け加えた。
「……少なくとも、たった今までは」
「呪いが解けた今、霊感の強いあの娘は、もう既に君の想念からなにかを感じとっているかもしれないということだね。
それが特別な力。選ばれし者にだけ与えられる、特別な……」
不意にあるじの巨躯がぐらりと揺れたかと思うと、まるで獣が唸るような、低い呻き声が唇から洩れ始めた。
クリフトはとっさに身構えようとして、はっとした。
分厚い瞼に包まれたあるじの瞳から、血が噴き出すように、滂沱と涙が溢れている。
「バルザックはね、ナナの遺体を横に、高笑いしながら言ったんだよ。
仕方ないじゃありませんか。神に選ばれていないただの虫けらは、どうあっても死ぬ運命なんだ。
このちっぽけな小娘は、生まれながらに特別な霊能力を持つミネアお嬢さんとは違う。
死のうが生きようが、この世になにひとつ影響を与えることのない、愚かでつまらない羽虫のような存在。
我々錬金術師にとっては、まさに格好の実験材料だったわけですよ、エドガン様、とね!」
どんと音を立てて、樫の木の椅子が前のめりに床に倒れる。
宿屋のあるじは立ち上がると、スープ皿に浮かんだ紙包みを、ゆっくりと指でつまみあげた。
「錬金術師エドガンの最も大きな罪は、あの呪われし男を弟子に取ったことだ」
火口の裂け目から溶岩が溢れるように噴き出した涙は、もうぴたりと止まっている。
「だから殺された。いや、勘のいいエドガンのことだ、本当は解っていたのかもしれないね。
自分が作り出した悪魔の術の恐ろしさを。自分が行った研究が引き起こす、数々の神への冒涜を。
だから解っていて、その罪をあがなうために、おとなしくバルザックに殺されてやったのかもしれない。
神官さん、わたしはそう思うんだ。
そしてバルザックもついに死んだと、風の便りに聞いた。
だとすればあとひとり、身を持って罪をあがなわなければならない人間が、いると思わないかい」