あの日出会ったあの勇者


驚き過ぎて声も出ないライを無視し、工場勤めの女たちの前に歩み出ると、緑の目の若者はすっと片膝を地面に着いた。

どこで習ったのか、当世風の洗練された動作で左手を胸に添え、典雅な貴婦人に対する敬愛の仕草をする。

「リラの花のように美しい御婦人がたには、ご機嫌麗しく。

俺は徒然なるままに北方の山奥よりこの国へ行商に赴いた、木工職人の」

緑の目の若者はほほえみをもう一度浮かべると、「………、と申す者」と自らの名前を名乗った。

これまで聞いたこともない珍しい響きの名前に、皆が目を見張る。

突然現れた謎の若者の光り輝くような美貌に呆然と視線を奪われ、化粧気のない女たちの頬がみるみる鮮やかな朱に染まった。

若者は間髪入れずに立ち上がり、皆が食事を広げたテーブルに近づいた。大柄な女がはっと我れに返る。

「なんだい!?あんたは。いきなり……」

「漂泊の我が身を任せるのは、ただ日銭を得んがための、目的地のない行商の旅。

あてどもなくこのブランカ王都へ入り、手づから彫った木工製品の買い手を探そうと繁華街を目指していたところ、うっかりこの工場地区に迷いこんでしまった……、しまいました。

道を聞きすぐに退散しようと思っていたが、過剰な職業意識ゆえか、先ほどからこちらの御一席が気になって仕方なく」

緑の目の若者は女たちの後ろをすり抜けるようにして進むと、呆気にとられているヴィエナの横に立った。

「御婦人。食事中に悪いが、一旦立ってくれ……もらえますか」

「は、はい」

ヴィエナは慌てて立ちあがった。

緑の目の若者は「ありがとう」と会釈すると、たった今までヴィエナが座っていた椅子の背もたれをためらいなく掴んだ。

いかにも軽いもののように片手だけでくるりと180度回転させて、空中で椅子を上下さかさまにする。

「これは」

四本足のうちの一本を持って、女たちの前に高々と掲げる。

そのとたん、若者の美貌から作り笑顔が消えた。

「ひどいな」

「え?」

緑の目の若者は視線を戻し、ヴィエナをじろりと見た。なぜか怒ったように睨まれ、ヴィエナの顔に狼狽が浮かぶ。

「な、なにがでしょうか」

「あんた、いつもこの椅子を使ってるのか」

「はい。これは、わたしが毎日」

「よく今まで怪我をしなかったな」

何を言われているのかわからないように、ヴィエナは首を傾げた。

だが先ほどの優雅な挨拶はどこへやら、緑の目をした美しい若者はもうにこりともしなかった。

「湿気で足の芯が腐ってる。しかも四本ともだ。いつ壊れてもおかしくない。このまま使っていたら、いつか大きな事故が起きるぞ。

幸い、あんたが痩せていて身が軽いから、なんとか持ってるんだ。もしも違う人間がこれに座っていれば」

頭に手ぬぐいを巻いた大柄な女のほうをちらっと見、ふいと目を離す。

「腰かけたとたん根元から足が折れて、砂利が剥き出しの地面に、背中から手加減なく落ちていただろう」

説明しながら、緑の目の若者の端正な顔はどんどん厳しくなり、語る口調も彼本来のそっけないものに戻ってしまっていた。

「それにこの椅子自体の出来も悪い。余り木材で作ったのか、部位ごとに使っている木材が違う。骨組みの交差もめちゃくちゃだ。

素人が見よう見まねで修繕したあともある。腰かけの裏側に銅板が貼ってある。そのせいでやたらと重いんだ。

新しい椅子を買う金が惜しいのか、壊れかけたものをごまかしながら使い回しているんだろう。俺がこの工場の責任者なら、こんなぼろ椅子は今すぐ取り替える。怪我人が出てからじゃ元も子もない。

だらだら無駄話しながら飯を食ってる暇があったら、さっさと雇い主に道具の新調を訴えるべきだな」

一気に言って、皆の呆然とした表情に気づくと、緑の目の若者は急いで咳払いをし、にこっとほほえんだ。

「……べきですね」

(遅せーよ、もう!)

物陰からはらはらして見つめながら、ライは声にならない声で突っ込んだ。

(あいつ、一体なにやってるんだ?!俺の母さんに……!)

「けど、あんたはわかってるみたいだ。この椅子が壊れてるのが」

緑の目の若者はヴィエナを振り返った。

「皆が集まって来た時、真っ先にこの椅子を掴んで持って行った。深く座ろうとしないのも、状態が悪いのに気づいてるからじゃないのか。

わかっていて、どうしてこれに座る」

「……」

ヴィエナはうつむいた。

「べつに、理由なんて……」

「たかが椅子ひとつで大袈裟に騒ぐ必要もない。自分ひとりが我慢していれば問題ない、ってところか。

常に自分が使っていれば、何か起きた場合に痛い目を見るのも自分だからな」

「なら、それでいいじゃありませんか」

ヴィエナは顔を上げ、緑の目の若者をきっと見つめ返した。

「あなたに一体なにがわかるって言うんです。こんな給金の安い古工場で、椅子が壊れたくらいで雇い主がいちいち買い替えてくれると思いますか。

だったら誰かが我慢するしかないんです。それがたまたまわたしなだけで、どうしてあなたみたいな人にそんな言い方を……」

「自分さえ犠牲になればいい、そういう考え方が俺は嫌いだ」

緑の目の若者は遠慮なしにヴィエナを正面から凝視した。

「もしもあんたが怪我をしたら、悲しむ人間がいる。そう考えたことはないのか。

稼がなきゃならない金額だとか、一緒にいられる時間だとか、そんなのは人によって違う。他人を羨ましがったってしょうがない。

でも、世界じゅう全部の母親に、やらなきゃいけないことがあると俺は思う」

突然母親、と呼ばれ、ヴィエナの顔に驚きが広がった。

「それは、出来る限り元気で、健康でいようと努めることだ。そうじゃなきゃ守るものも守れない。

簡単なようで難しい。でも、いちばん大事な仕事だ」
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