キスの熱
カチャ、カチャと食器を並べる音が、厨房にせわしなく響く。
精緻なエナメル細工を施した、賓客用の銀の絵皿のひとつひとつに、熱いスープを注いで行き、香りづけの塩漬け杏のジェリーと、朝摘みの香草を細かく刻んで散らす。
己れの手で鮮やかに仕上げられた料理をつくづくと眺め、満足の深い吐息を洩らすのは、この宿屋でもう何十年と続けて来た、彼の大切な日課であった。
心行くまでその作品を見つめたあと、懐に手を忍ばせて、小さく折り畳んだ紙包みをそっと取り出す。
辺りを窺いながら、中身をこぼさぬように丁寧に包みを開き、一番端に置かれた、ひときわ豪奢な皿の上で傾けようとしたその時、
「何をやっているんですか」
突然掛けられた声にびくりと身体が震え、紙包みが滑り落ちて、ぽちゃんとスープ皿に浮かんだ。
みるみる水気を吸って紙は広がり、ほどけた折り目の間から粉末が四方に溢れて、うまそうな湯気をたてるスープの中に、さらさらと溶けて消えて行く。
「塩や砂糖の調味料にしては、入れるタイミングがずいぶんと遅いようですが」
声のするほうを振り返ると、引き扉を開けてひとりの人物が立っている。
一目でこの地方のものではないと解る、丈の長い法衣をまとい、温和そうな顔立ちにそぐわぬ険しい表情を浮かべてこちらを凝視している、まだ若い背の高い青年だった。
「おやおや、困ったねえ、厨房に勝手に入って来られると。厠はこっちじゃないよ」
彼はとっさにいつもの商売用の笑顔を作った。
「それとも飯をせかしに来るほど、もうそんなにお腹がすいたのかい?ええと、あんたは確か……」
「サントハイム王家の臣、神官クリフトと申します」
「そうか、サントハイムの。確かミネアちゃんとマーニャちゃんの連れだったね。
もう少しだけ待っていてくれるかな。すぐに出来上がるから」
青年は小さく頷いて、調理台に並んだ食器を見渡した。
「こんなにたくさんの食事を、いつもあなたお一人でご支度なさるのですか」
彼は微笑んだ。
「料理の仕上げは、必ずひとりでやることにしているんだよ。
雇ったばかりの使用人に味を盗まれて、そっくりそのまま同じものが、次の日モンバーバラの酒場の品書きに載ってる、なんてことがしょっちゅうある。
だからわたしは、大切な事は絶対に、自分ひとりで行うようにしているんだ」
「他人を信用していらっしゃらないのですね」
「信じて、何のいいことがある?」
彼の声が低くなった。
「神官さん、若いあんたにはまだ解らないかもしれないが、信じ合えば絆が生まれるなんて、寝ぼけた神様が口にした、おためごかしの幻想でしかないんだよ。
信じれば裏切られる。
人は誰しも自分のためなら、簡単に他人を切り捨てることが出来るんだ。
わたしはそれをよく知っているから、もう絶対に他人を信じたりはしないのさ」
「だから報復するのですか。絆を断ち切り、裏切りを重ねて」
青年は足音を立てずに近付いて来ると、彼の前で掌を広げた。
黒い土がこびりつき、汚れているが、まだ微かに光を残している、宿屋の印入りの金のカフスボタンが乗せられている。
「これがエドガンさんの墓に、落ちていました」
「おや、いつの間に」
「あなたですね。万聖節の日を狙って墓場に呪いをかけ、ミネアさんを病に陥れ、そして今また料理に薬を盛り、彼女に危害をくわえようとしているのは」
ボタンを受け取った宿屋のあるじは、顔を上げて青年を見つめ返したが、よく太ったその丸い面には、動揺も焦りもなにひとつ浮かんでいなかった。