キスの熱


「お、おはようございます」

「おはようじゃないだろ」

慌ててこちらにお辞儀をするクリフトを見て、勇者の少年は面倒そうに鏡を指差した。

「割れてるぞ。一体なにやってるんだ?

神様神様言ってるうちに、ついにおかしくなったか」

驚いて振り返ると、縦長の姿見には無残な亀裂が入り、クリフトが頭突きした部分を中心に、蜘蛛の巣状のヒビが広がっていた。

「す、すいません!ついやり過ぎて」

「何をだよ」

「そ、その……不甲斐ない自分に対しての、体を張った戒めのようなものです」

「こんな朝っぱらからか。お前、本当に訳の解らない奴だな」

少年はため息をついた。

「それより、夕べのうちに無事に帰って来たんだな。アリーナもか」

「はい」

「何事もなかったのか」

「はい、と、特には」

クリフトの顔に動揺が走ると、少年は意地悪そうな笑みを浮かべた。

「と、いうわけでもなさそうだな」

「な、何を……わたしは、いえ、わたしたちはなにも」

「じゃあお前の信じる神様とやらにも、誓ってそう言えるのか」

「は……」

クリフトはうなだれた。

「も、申し訳ありません……」

「ふうん」

美貌の少年は、にやにや笑った。

「なるほどな。堅物のお前もついに実力行使で想いを遂げて、憧れのお姫様とようやく身も心も結ばれたってわけか」

「ちっ、違いますよ!!」

クリフトは仰天して叫んだ。

「む、む、結ばれるなど、とんでもな……!わ、わたしはそんな……!」

「うるさいな。まだみんな寝てるんだ。もう少し声を落とせよ」

「すっ、すいません。失礼致しました」

慌てて声をひそめるクリフトに、勇者の少年はからかいまじりににじり寄った。

「……で、どこまで行ったんだ?絶対に誰にも言わないから、教えろ」

「い、嫌ですよ!どうしてそんな……」

「どうせ想い合っていることを確かめたとしても、二人はうまくいきました、めでたしめでたしとは行ってないんだろ」

クリフトは目を丸くした。

「なぜ解るんですか!」

「馬鹿だな、俺は神に選ばれた運命の勇者様だぞ。天空人の千里眼を持ってすれば、そんなことはたやすく解る」

本当は全く眠っていないクリフトの青い顔を見て、どうせそんな所だろうと予測をつけただけだったが、少年は込み上げる笑いをかみ殺し、いかめしい顔を作った。

「なあクリフト、この俺には世界を救う特別な力ってやつがあるらしい。

だとしたら不運にも、愛し合いながら身分違いで生まれてしまった恋人同士を、救う力くらいあるのかもしれないぜ。

第一悩みや苦しみってものは、誰かに話した方が楽になる。

ほら、遠慮せずに言ってみろ。最後まで聞いてやるから」

「そ、そうですか。天空びとの千里眼……」

真剣な顔つきで、どうしたものかと考え込むクリフトを、少年は面白くてならぬように見つめた。

おそらくこの光景を、旅の当初から彼を知るミネアやマーニャが見たとしたら、あの氷の鎧をまとっているような、他者を一切受け入れない少年が、こんなにも明るく笑うことが出来るのだと、言葉をなくすほど驚いただろう。

家族も愛しい少女も、彼を見守って来た大切な人々全てを、魔物の襲撃で一夜にして失ってしまってから、自分以外のなにもかもに心を閉ざしてしまった、勇者と呼ばれる少年。

だがそんな彼にとって、サントハイムの神官であるクリフトは、なぜか不思議な親しみを感じさせる、特別な存在であるようだった。

その生真面目さゆえに、仲間達によくからかわれるクリフトを見ていると、冷たく凍っていた美貌は仕方なさそうにほころび、傷ついた緑色の目はそっと和んだ。

心を引き裂かれても、それでも戦わなければならない宿命を負わされた少年にとって、穏やかで優しいクリフトの存在は、いつの間にか兄とも親友とも言える、なくてはならぬ存在になっていたのだ。

「……と、言うわけです」

少年の口から出任せを信じたクリフトが、たどたどしく昨夜の顛末を説明し終えると、アリーナ姫と同い年の、美しいがまだどこか未成熟な緑色の目が、不思議そうな光を浮かべた。

「両想いだと確かめ合えて、よかったじゃないか。一体この話のどこが悩みなんだ」

「ですからわたしとアリーナ様では、あまりに身分が違い過ぎるのです」

クリフトの口から、悲哀に満ちた深いため息がもれた。
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