キスの熱
やがて銀色の月が傾いて、東の空が淡く白み始めると、木陰に身をひそめていた鳥たちが目を覚まし、朝を告げる歌を高らかにさえずり始める。
寝台にうつぶせに横たわり、何度も首を動かしていたクリフトはのろのろと起き上がり、目をこすりながら、部屋の隅に掛けられた青銅製の姿見を覗き込んだ。
ぼさぼさの頭と、瞼の下にくっきりした青紫色の隈。
(……一睡も、出来なかった)
昨夜の別れ際のアリーナの淋しげな顔が脳裏に焼き付いて離れず、目を閉じてもひと晩中、クリフトを苦悩でさいなみ続けたのだ。
(わたしたちは将来を約束した恋人同士だと、思ってもいいの?)
頷くことも出来なければ、身分違いのふたりがそうなるのは不可能なのだと、はっきり告げることも出来なかった自分。
例え未来がなくとも、愛し合う気持ちさえ真実ならば、せめてこの旅の間だけでもかりそめの恋人同士として想いを交わし合いましょうと、答えればよかったのだろうか。
(馬鹿な)
クリフトは乱暴に頭を振った。
(そんな卑怯な事、絶対に言えるわけがない)
だが自分は既に、アリーナ姫に積年の想いを打ち明け、分不相応にも王女である彼女を抱きしめて、唇まで重ねてしまったのだ。
例えその場限りの感情ではないとはいえ、恋人として彼女のそばにいてやることが出来ないのなら、ひとりの男として、決してそんなことはするべきではなかった。
(わたしはなんと無責任で、己れの感情でしか動けない愚か者なのだろう)
それに比べてアリーナ姫は、あんなにも真っ直ぐな情熱を傾けて自分を求め、「わたしと結婚して、サントハイムの王様になって欲しい」とまで言ってくれたではないか。
(純粋で一途で、水晶のように心の美しいアリーナ様)
(好きだよ、クリフト)
小さな頃から恋し続けて来た、そのアリーナが、自分の事を同じように思っていてくれた、それだけでもう十分だ。
昨夜のことは全て忘れ、これまでどおり王女の従者として、何も望まず、ただひたすら忠義を尽くしていこう。
(出来るのか?今のわたしにそれが)
ごん、という鈍い音がしたかと思うと、それは自分の額が鏡にぶつかった音だった。
だが痛みは感じない。
クリフトは額を押し付け、こちらに虚ろな目を向ける自分の顔と見つめ合った。
(……無理だ)
だってもう、知ってしまった。
アリーナ姫の温もり。
甘い髪の香り。
吐く息のかぐわしい熱さ。
抱きしめた身体が、あの圧倒的な強さには意外なほど細く華奢だったことも、触れた唇が果実のように柔らかくなめらかで、初めてのキスにかすかに怯えながら、懸命に自分に応えてくれたことも。
こうしてあの時の事を反芻するだけで、渇きにも似た強い衝動が襲い、じっとしていることさえ出来なくなる。
(もう一度、触れたい)
(アリーナ様を抱きしめ、キスをして、想いが通じ合ったのは嘘じゃなかったのだと、何度も確かめたい)
だがそれだけではなく、若くどこまでも愚かな自分は、いつか彼女にそれ以上のことさえ望むようになってしまうのかもしれない。
傷の手当てのため、あらわにした背中に、アリーナの頬が触れたあの瞬間。
振り向いて彼女を抱きすくめ、なにもかも忘れて髪やうなじにくちづけ、全てを自分だけのものにしてしまいたいと、一瞬でも思わなかったと言えるだろうか?
(わたしはなんて自分勝手でちっぽけな、汚らわしい人間なんだ)
ごんごんと鏡に頭突きを続けても、少しも冷静になんてなれない。
クリフトはきつく目を閉じた。
(いつか奇跡が起きてこの想いが叶えばと、子供の頃から願っていたけれど、叶えばまた新たな苦しみが訪れるなんて、思ってもみなかった)
15の時、10才のアリーナ姫に恋い焦がれながら、早く大人になりたいと、姫様と釣り合う年齢になりたいと、真摯に神に祈ったあの日。
だが22を迎えた今、もうあの頃のように幼く澄んだ気持ちだけではない、もっと乱暴な、自分でも抑えられない感情が、波のようなうねりとなってアリーナ姫を求めている。
(きっと、修業が足りないんだ。だからこんなに煩悩にとらわれてしまうんだ)
クリフトはもはや無我夢中になって、がつがつと鏡に頭を激しくぶつけた。
(目を醒ませ、冷静になれ、クリフト)
(お前はただの神官だ。アリーナ様と結ばれたいなんて図々しいことを、これ以上考えてはいけないんだ!)
「……何やってんだ?お前」
その時、呆気に取られた声が後ろから響いて、クリフトははっと我に返った。
「……あ」
「最近の聖職者の祈り方ってのは、随分と被虐的になったんだな」
腕を組んで美しい眉根を寄せ、呆れたように自分を眺めていたのは、涼しげでどこか冷たい翡翠色の目。
整った美貌を怪訝そうにしかめてたたずむ、天空人と人間の血を受け継ぐ、勇者の少年だった。