キスの熱
酸を含んだ薬が、皮膚から血管までじわじわと浸透し、鋭い痛みがクリフトの心臓を刺す。
だが鼓動が激しく鳴っているのは、そのせいだけではなかった。
背中に頬を寄せ、じっと動かないアリーナ。
振り向いて思いきり抱きすくめ、珊瑚色の小さな唇に、なりふり構わずもう一度キスをしたい。
だが今そうすれば、長いあいだ抱え続けて来た想いは、奔流のように溢れて走り出し、もう自分自身でも抑えることが出来なくなってしまうだろう。
(アリーナ様が好きだ)
(他に何も考えられないくらい、頭がおかしくなりそうなくらい)
(好きだ。大切だ……)
だから今はこれ以上、このまま二人で寄り添うわけにはいかない。
「ありがとうございました。ずいぶん楽になったようです」
クリフトはそっと立ち上がり、傷を庇いながら法衣を頭から被って身につけた。
アリーナはおとなしく身体を離し、クリフトを見上げた。
鳶色の瞳は何故か不安げで、幼子のように心許ない光を浮かべている。
(……駄目だ)
自制心が途切れ、ついにクリフトはアリーナをぐいと引き寄せた。
だが抱きしめることはせずに長身をかがめ、柔らかな前髪をかきわけると、そっと額に唇を押しあてる。
「姫様」
「……うん」
「そろそろわたしは、部屋に戻ります。
朝まであまり時間がありませんが、どうぞゆっくりとお休みになって下さい」
「クリフト、あ、あの」
アリーナの頬がぎこちなく強張り、みるみる桜色に染まる。
「明日からまた、苦しい旅は続くわよね」
「はい」
「これまで通りわたしは、頑張って戦うつもりだし、もう決して勝手な行動を取って、お前に迷惑をかけたりはしないわ。
それに、今日のことは誰にも言わない。仲間たち皆に、気を使わせるのも嫌だもの。
だけど、心の中では」
あどけない瞳が輝き、クリフトをしっかりと捉える。
「お前を、ただひとりの特別な存在だと……、これからもずっとそばにいてくれる、大切な人だと思っていいのよね」
「わたしはいつも、貴方だけを心からお慕いしております。
それは何があろうとも、生涯変わりは致しません」
「じゃあ」
アリーナの声が、答えを聞くのを怯えるように震えた。
「わたしたちは今日から、将来を約束した恋人同士になったと……そう思ってもいいの?」
「それは……」
クリフトはためらった。
(いいクリフト、教えてあげる)
鼓膜の奥の深い部分で、ミネアとマーニャの声がこだまする。
(アリーナちゃんはどんなに可愛くても、所詮は身分違いのお姫様。
旅が終わればお城に帰って、どこかの国の王子様と、幸せな結婚をしちゃうのよ)
(アリーナさんは貴方にとって主君で……とても高貴な身分の方で、
どんなにお慕いになっても、クリフトさんのお気持ちが叶い、お二人が幸せになることが出来るとはわたしには思えません)
「クリフト……?」
答えを待つ、アリーナ姫の無垢な声。
頷きたかった。
後先など何も考えずに、目の前にあるこの幸せに身を委ね、愛しくてならぬ少女とずっと共にいようと誓いを交わしたい。
でもそれは一介の神官である自分には決して許されない、霧に漂う永遠のまぼろしの夢だ。
その瞬間、蒼い瞳に痛切な悲しみが浮かび、それを見たアリーナは、クリフトが何を思ったのか全てを悟った。
「なあんて、冗談よ!」
取り繕うように慌てて言うと、にっこり笑う。
「世界が闇に覆われようとしているこの大変な時に、恋人もなにもあったものじゃないわよね!
わたしったら、どうかしてる。クリフトと二人でいられたのがあんまり嬉しかったから、きっと浮かれちゃったのね。
ごめんなさい。遅くまで付き合ってくれてありがとう。明日に備えて、お前もゆっくり休んで」
「姫様も」
クリフトは丁寧に頭を下げた。
「では、失礼致します。お休みなさいませ」
すらりとした背の高い姿が、扉の向こう側に消えて行く。
(……言ってくれなかった)
クリフトの姿がなくなってからも、アリーナはそのままぼんやりとその場に佇んでいた。
(先の保証なんてなくても、今この時だけ、感情に任せて頷くことも出来たのに)
だがあの真面目なクリフトが、そんなことを絶対にするはずがないことも、アリーナには充分に解っていた。
悲しげな蒼い眼差し。
そこには痛みとやるせなさと、それ以上に深い自分への愛が、くっきりと映っていた。
(でも、きっと大丈夫だわ)
アリーナは顔を上げた。
(これから先なにがあったとしても、わたしたちは絶対に大丈夫)
だってわたしは、聞いたのだから。
銀色の月明かりの下。
透き通る真珠の涙をこぼしながら、彼が囁いた真実の言葉を、この耳ははっきりと聞いた。
(好きだ)
星の光のように頭上から降りて来る、低くかすれた声。
(愛してる、アリーナ様。
誰にも渡したくない。
どうか、わたしだけのものになって下さい)
だからわたしは何があっても、もう絶対に彼を諦めたりしない。
ひそやかな決意を心に刻むと、アリーナはもう一度彼の姿を象るため、暗がりのなか目を凝らして、愛おしい広い背中の残像を探した。