あの日出会ったあの勇者
ヴィエナが椅子を並べ、テーブルを拭いて食卓を整えると、それを合図にしたかのように扉から続々と工場勤めの女たちが出て来る。
皆、思い思いにテーブルについて持参した弁当を広げ、あっというまに憩いの輪が出来る。
女性にとって、なによりの癒しの手段はお喋りだ。どんなに疲れていても口はつぐまない。笑いながらフォークを手にし、噛みしめる時間も惜しいかのように次々と食事を喉に押し込む。その間もずっと喋っている。
昨日露店で買った果物の味について。最近読んだ本の内容について。
給料をもらったら買いたい服のこと。お勧めの新しい化粧品のこと。うだつの上がらない夫への愚痴。姑への不満。子供への心配。飼い犬の病気。明日の天気。
話題は毎日ほぼ同じだが、女たちはまるでそれが人生の一大事であるかのように、ありきたりなお喋りに懸命に花を咲かせ、一心不乱に耳を傾ける。
長テーブルのそこかしこで繰り広げられる会話の応酬の、そのどれにもヴィエナは加わっていなかった。とくに加わりたそうにも見えなかった。
大柄な女に促され、遠慮がちに一番端の椅子に座る。懐から布包みを出して結び目を解くと、中からいびつに変形したパンが出て来た。ずっと懐に入れていたので、押しつぶされて形が変わってしまったのだ。
ライは涙に濡れた目で、おかしな形のパンを控えめにかじる母親を見つめた。
どうして、仕事中もずっと持ってるんだよ。昼飯くらい、どこかに置き場があるだろ。
そして、すぐに思い当たった。周りの女たちが食べている昼食は、皆手の込んだ豪華な弁当だ。魚の酢漬けを挟んだパン。たっぷりの野菜のヨーグルトソースがけ。クリームを乗せたビスケットや、木の筒に羊の乳を入れて持ってきている者もいる。
だが、おかずを全部エレックとライのお弁当に詰めてしまったヴィエナは、残ったパンしか食べるものがない。
質素な食事を、他の人に見られたくないんだ。比べられたくないからずっと持ってるんだ。まるで隠すように。どっちみちばれてしまうのに。だって、みんなで一緒に食べなきゃいけないんだから。
もぐもぐと口を動かしながら、母親は時折、人差し指で上まぶたを押さえた。
痛みをこらえるように顔をしかめてまなじりをこするその動作は、家でもよくやっている。
そんなに、目の調子がよくないのか。ライの胸が不安で満ちた。母さんの目が悪いなんて、全然気づかなかった。ただ眠いから目をこするんだと思っていた。
だからその動作をするたび、むしょうに腹が立った。せっかく俺と一緒にいるのに、いつも眠そうにばかりしてるから。
こんなにそばにいたのに、うそみたいに気づかなかったことだらけだ。
でも、今ならその理由がよくわかる。俺は、俺のして欲しいことを押しつけるだけで心がいっぱいだったから。構ってほしくて、愛してほしくて、一方通行の怒りをぶつけることしか出来なかったから。
心配されたいと思っている人間には、相手を心配することは出来ない。
「うーっ」
ライは唸り声をあげて、鼻をずずっとすすり上げた。
「うっ、えっ、うええっ」
せきを切ったように嗚咽が洩れはじめると、自分ではもう止めようがなくなった。
頬が涙でびしょびしょになって、口の中が塩辛い味で包まれる。ライは地面に突っ伏し、しゃくりあげながら泣きじゃくった。
「泣くんじゃねーよ」
傍らにいた緑の目の若者は、ライをのほうを見ようともせずに言った。
「男だろ」
「だって……、だ、だって」
「母さんに悪かったと思うなら、謝れ。母さんが心配なら、労わってやれ。たった今からでも、お前にはそれが出来る。
お前の母さんは、生きてる」
そう言うと、緑の目の若者は何を思ったか、「見てろ」と言って突如柱の陰から飛び出し、すたすたと前方に向かって歩み始めた。
工場の女たちが囲む長テーブルの前まで行くと、ぴたりと足を止める。ライは唖然として口を開けた。
「な……、なにやって……!」
手ぬぐいを髪に巻き付けた女たちはお喋りを止め、全員ぽかんと若者を凝視した。ヴィエナも驚いたように息を飲んで見つめている。
「こんにちは」
緑の目の若者は、彼にもそんな芸当が出来るのかと仰天するほど優しい声音で挨拶すると、紳士らしく丁寧に頭を下げ、女たちをひと目で魅了する極上のほほえみを浮かべてみせた。